ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5052,生と死をめぐる断想 ー5
学生時代に、父と禅師が親交があり、実家泊りに来ていただいた事等の因縁で、
六日町の禅寺“雲頓庵”に読書を兼ね春・夏休みになると滞在していた。
度々なので自然と禅師と話をさせていただく機会があった。無知と若さの為に
生意気な質問をした私に、いつも笑顔で答えてもらったことが、今では懐しい
思い出。 京都大学哲学科卒で、気持ちは若い。女性で何度か失敗して、
その世界では登りつめることが出来なかったと、両親から聞いたことがある。
まだ鮮明に憶えている対話とは、
(私) −禅とは一言で言うと何ですか?
(禅師) −字の通り天地宇宙に己の単(一人)である事を示す(気づく)事。
ー 示単 社会に出て半年あまりで気負いすぎで早くも行き詰まり、五日間の
夏休みでの雲頓庵の禅師との対話。
(私) −世間と理屈は違う。理屈どおりに世の中いかない事がよくわかりました。
(禅師) −あなたの理屈がおかしいだけ、世の中は厳しくも甘くもない。
世間も理屈もあるものか!(厳しく感じたのは自分自身そのものが甘いだけ)。
後者の言葉には頭を真二ツにわられてしまった!というのが実感。頭で物事を
考えていた私が、“自分が”前に出ていた私が、その時点でたたきこわされ、
社会人の一員に一歩踏み入った瞬間だったことを憶えている。
ー以下は、当時の日記であるー
ー1968年 雲頓庵 9月10日
7時5分起床。 掃除に食事、9時半より11時半まで勉強! その後に、長岡の
明治大学の1年の田村君と話す。3日まえにやはり勉強の為に来た男。夕食後
7時半より、午前様と「神」について話す。 午前様「一という数字はあるが、
一という実体はない。それを一といえば一であるが、一でないといえば一でない。
一は万物であるともいえる」「人間は実体だけでない、魂であり、永遠的なもの
である。全ては生き続けている。」デカルトの「我思う、故に我あり」の言葉を引用。
「誰もが神の要素を持っている、磨くかどかだ」「人間の見る聞くは5感6感の
働きでしかない。それを超えた存在はいくらでも存在する。それは修行によって
初めて知る事ができる。」「神が罰を与えるのは、困らせる為でなくそれより、
間違いを知らしめる為である。」御前様と話していると自分の無知が露出される。
明日は座禅を8時にくむ予定である。
ー9月11日
午前様が座禅の指導をしてくれる。解ったような解らないような!
9時から夜9時まで座禅に挑戦!計8時間休み休みだ。午前中は雑念だけだ。
午後からは少し集中できる。感想はただ疲れただけだ。当然ながら禅の事は
さっぱり解らない。ここの2週間近くは、充実したものだった。
明日からは娑婆である、楽しみだ。 これから高橋さんと根本君と送別会だ。
▼ 恐らく日記に書いてなければ、全て忘却の彼方。書き残すことは痕跡
を残すことである。 ーつづく
01月13日(火)
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