ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4934,コトの本質 −4
この両者に「自由」を見出す。あえて言えば、生命体が生きているだけで、どのような状態であっても、死んでいなければ
「自由」である。我われは、強力な束縛はないが、小さな細かい束縛の中で生きている。もう一つ、現在はある程度自由だが、
もっと多量な、もっと高貴な、深遠な自由に到達してないと考える場合である。どっちにしても、ある程度自由だが、自由
でもない、のが多くの人たちの現実。 気の持ちようである。だが、この「気」こそ、ベルクソンの呈示したものである。
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3087,挫折を考えてみようか −2
2009年09月17日(木)
哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を
拒否したため、大学教授を剥奪され、身の危険を感じスイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから「限界状況」
という考えが、色濃く反映している。『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、闘争、
悩み、歴史による規定などをいう。それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を知ることになる。
しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)
の世界に導いてくれる。 もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような超越的なものへ目が見開かれる
という宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを
知るということ、理性の限界を知るということである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。
それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。 20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、
大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。 理性そのものの疑問が生じるのは当然である。
我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者(作家や芸術家など)から救ってもらう切っ掛けとなる。
挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの
暗号を解いて、包括者を受け入れやすい環境として最適な状態となるのである。挫折は、自分の壁が破壊することでもある。
その壁は、自分を守ってもくれるが、反面、殻にもなってくる。養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、
人間にとって(特に若いときの)挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 ところで先日・・・・ 〜つづき
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2722, どうも世界恐慌に入ったようだ!
2008年09月17日(水)
* アリコが危ない?
(字数の関係でカット、2011年09月17日)
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2007年09月17日(月)
2358, ギリシャとエーゲ海の旅 −4
(字数制限のためカット 2012年9月17日)
09月17日(水)
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