ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5901,閑話小題 〜病は覚醒装置である 〜3
自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると
思い込んでいるだけだ。
僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも
あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、
悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、
生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙
スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も
うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から
見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた
かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、
生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は
記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。
あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観
時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。
そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動
といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解
ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。
「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する
から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として
世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の
目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践
できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる
ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に
到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する
ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う
べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、
同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。
昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに
到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。
脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、
そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、
他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>
が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた
天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
・・・・・・
4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
* 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜�
ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。
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05月12日(金)
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