ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5648,「家、ついて行ってイイですか?」 ー②
・片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。
それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのが
ストーカー。
・分人主義は、人間を個々に分断させず、単位を小さくすることで、
きめ細かなつながりを発見させる思想である。
・帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、
今後重要なのは複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。
むしろ矛盾する複数のコミュイティに参加することが大事なのだ。個人を複数
の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が開けてくる気もする。
分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されている
と考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながって
いるのではないか。≫
▼「わたし」は、わ(我)の最小単位が、たし(足し)で加わって私になっている。
だから、人生を振り返ると、その時々の出会いとか、経験で、分人を増やして
いる自分が存在する。創業には、その分人たる主体たる自分が、厳然と、そこに
存在している。秘境旅行で、各地に旅をしている自分も、旅行先に溶け込んで
いる分人である。旅行を続けることは、旅先に溶け込んでいる分人を増やす
行為である。個性とは、過去の経験の総体の構成比率とは、言いえて妙である。
自己の変化とは、付き合う人間を入替えることだ。それも森の生活のうちである。
・・・・・・
2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か? 〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
「狂人三歩手前」−中島 義道 (著) −読書日記
ー「私」とは何か?ー
「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。
成る程と合点がいったが・・ 常に考える時、「私」は何々・・と一日、数百回
も自問自答しているのに、その「私」とは何ぞや?と考えたことがない。
それを知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、
さっきの橋を歩いていた主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と
思いつつ、解ったようで理解できないモヤモヤが残っていた。過去を振り返った
時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある「いま・ここ」の主観
は、まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」
をみ砕いて解りやすく説明をしている。
−p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。
だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がって
いるが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか? そこに独特の感じがするから?
だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか?
こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。
「私」とは知覚とは別の独特の作用によって端的にとらえられるものでは?
いや、そんな独特の作用など見いだせない。「私」とは知覚しているときに、
同時にそこに感じられるものではないか? いや、胃がきりきり痛い時に
それと並んで独特の「私」という感じなどない。そもそも「私」とは作用の
対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。
そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」とか名付けた。だが人間と
しての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。
あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。ここで、別の視点
から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における同一なもの
と了解されている。「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」者である。
しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、現在の側
から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。
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09月01日(木)
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