ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5460,遊びをせんと 〜A 遊びを哲学する 
 実在のコシノ三姉妹の子供の頃からの取っ組み合いの喧嘩も、リアル。 
私が事業を始め気づいたことは、事業に家族や親戚を入れないのが鉄則。 
事業は極限の限界の連続。そこで相打ちになる。コシノ三姉妹は、そのことに
気づいていたようだ。三姉妹の母親の子育ては、殆ど祖母が担っていた。 
浮き役としてのオバアサンの役割が、そこにある。人類の進化にオバアサンの
存在の役割があったという説がある。経験の知恵伝達をオバアサンを通して、
子孫に教えを伝える役割である。その役割を、とぼけたオバアサン二代が、
巧妙に果たしている。 それぞれが主体的に生きてこそ人生ということか。 
いずれにしても同じことだが・・・
 ・・・・・・・
3624, 自己の探究 ー1
2011年02月26日(土)
 「 自己の探究 ―自己とつきあうということ 」和田 渡 (著)
   ーアマゾンの内容
 悩む人にも、悩まない人にも。偉大な思想家たちの思索をたどりながら、
他者や世界と繋がる自己発見への旅。モンテーニュら偉大な思想家たちの
思索を辿りながら、誰もがそこから逃れられない厄介な「自己」とのより
よい関係の構築を模索する。
ーー
哲学史から、世界との関係より、自分自身との関係を重視した思想家たち、
ソクラテス、モンテーニュ、パスカル、アミエルなど、を取り上げている。
「自己」の哲学的意味を知りたい人が、その思想家を見つけるための
「カタログ」でもある。どのページを開いて、4〜5行を読むと自己に
対する意味が自己完結しているように書いてあるのが良い。 
≪ 自己への問いは、いわば、われわれに課せられてくる問いなのである。
 日常に亀裂がはいり、自己の存在そのものがひとつの問題であることに
気づかされる時が、われわれに訪れるのである。ひとたびこの問題に遭遇
すると、自己は一種の棘となってわれわれを苦しめることにもなる。
----しかし、その歩みを通じて、自己がどのような存在であり、自己として
生きることがいかなることかが少しずつ見えてくるであろう。自己への旅は、
われわれが自己の多様な側面を解きあかしていく思考の経験であり、
自分との対話や反省の試みを介して自己を掘りさげていく経験である。 ≫
≪ 自己探究という冒険には、終わりがない。それというのも、自己は不断に
 変化することをやめないからであり、自己を探究する視線にも変化が伴うから。 
それゆえ、この冒険は、変化するものをめざす視線と、それ自身が変化する視線
とが交錯するなかでくりひろげられる絶え間ない自問自答の過程である。 
そこでは、見えていなかった側面が見えてくる、自分に疑いなく見えていたと
思っていた側面が疑わしくなる、自分の見方の狭さ、窮屈さが見えてくる、
もうひとつ先を読む見方が自分に求められてくる、というようにして自分を
軸にした思考がくりかえされる。この思考は・柔軟性を欠けば、こり固まって
偏狭な自閉的世界へと入り込んでしまうのかもしれない。 ≫
▼ 60歳を過ぎてから、自分では見えていたと思っていた側面が疑わしく
 なってきた。 老化とは偏狭な自閉的世界に入るプロセスでも。最近、
自分の中に以前から下町などで見た歪んだ顔の老人の姿が合せ鏡になってきた。 
自分の老いを見つめることも自己探究。
・・・・・・・
3259, 世界の深さは、世界を読む人の深さにかかってくる
 2010年02月26日(金)
  *蒟蒻問答
八五郎。昔の伝で上州は安中で蒟蒻屋を営む六兵衛を頼ってやって来た。 
六兵衛さん曰く「丁度村の寺に住職が居なくて困っていた所だから、そこの
住職になれ」と勧められた八五郎、気楽に過ごしていたが、ある日、諸国の
僧侶が問答をしたいとやって来たから、大変。当時は、問答をして負けた方が、
寺を明け渡して出て行かなくてはならない決まりがある。八五郎は、仕方なく、
その日は住職は留守だとして旅の僧を引き取らせますが、また来ると言われ、
困った八五郎六兵衛に相談、六兵衛は自分が住職になって適当に追い返すと

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02月26日(金)
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