ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5361,うらやましい死に方 〜愛犬に見守られ
日本では天才、アメリカでは秀才? いやイチロウはアメリカでも天才だろう。
そう考えると天才、秀才は比較の問題。とすると、自分で地元で、積極的逸脱
をしていたと思っていたのは、自己詭弁でしかなかったことになる。
単なるアウトサイダー、ハグレモノ。天才は、対象に没頭するあまり誤解の
ベールに包まれ逸脱者として扱わた。ところで、酒や薬でトリップするのを
積極的逸脱というのか?というと、それは違う。前回、書いたが、40・50歳
代に多くの問題が重なり、そのストレス解消のため秘境旅行に数多く行ったが、
これは日常からの積極的逸脱であった。その総量のエネルギーと感動は、
その他の人生の総量と同じぐらいはあった。人生の積極的逸脱で見られるのは、
40歳半ばから50歳で一線を引退し、早々に自分の趣味の世界に入る人がいる。
江戸や明治時代には多く見られたが、現代では経済的事情があり、そんな優雅
がことは難しい。 いや、それより、早々に産業廃棄物扱いをされてしまう
恐怖感が壁になっている。 私も結果からして、10年前に会社を売却して、
第二の人生に入った方が得策だった?と考えたが、それは後講釈。
どちらにしても結局は同じ。事業に「たら、れば」はない。積極的逸脱もある
なら消極的逸脱もあってよい。一般にいう落伍者である。落伍による失意の
果てに待っているのが自死。これも、あの世への積極的逸脱と考えられなくも
ないが、好き好んで自死をする人は皆無に近いから、消極的逸脱の果てになる。 
鎌倉時代中期の僧侶一遍は時宗の開祖。「捨聖(すてひじり)」
と尊称された。捨てて捨てて捨て去った人。
 ・・・・・・
3524, 「人・ひと」と、「人間」の違い
2010年11月18日(木)
 私たちは「人」と「人間」の違いを意識せず何気なく使っている。
しかし、そこにはハッキリした違いがあるようだ。 この違いについて膨大な
エネルギーで和辻哲郎が研究している。
【 和辻哲郎は「人・ひと」と、「人間」の違いにこだわり、これがどのように
 混同されて使われてきたかを、英語、フランス語、ドイツ語などと比較対照
しながら、考察を進めてきた。日本語に「われひとともに」という言葉がある
ように、ひと」「人」はわれの人としての自覚から始めて、他人を意味している。
そのうち「ひと」は「人は言う」や「人聞きが悪い」などのように世人・世間の
意味に用いられるようになった。 では、「人間」という言葉はどうか。
これは、人に間の字を添加している。間を加えるとすると、すでに「ひと」「人」
は、自、他、世人を意味しているのだから、そういう人の間を意味し、そういう
人の間の関係を示すということになる。人間とは世間であり、世界でもある。
和辻は「法華経」や、その原典に関わる古いインドの神話まで渉猟して、人間
とはあくまで人間社会のことであって、天上や自然界に関わるものでないことを
実証している。】 ( 哲学者の言葉100 −稲垣真美著 p‐37 )
 〜「人間は、人の間の関係を示す」とすると納得する。人は人との関わり
あいの中で、人間になっていく。また、それは人だけでなく、我われを産み
出してきた根源といわれるものと発展していくが、それは、人間の意味に、
あくまでも含まないとする。根源を含め人間というと、それぞれの自己絶対化が
生じてくる。人は人間関係、社会を通して人間になっていく。
書物を通した色いろな人物もである。「出会い」こそ、人を人間に変えていく。
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3149,つれづれに ー閑話小題
 2009年11月18日(水)
  * 論理的思考とは
毎日、二〜三時間かけてレポート1〜2枚分の文章を書き続けて8年半経つ。
自分のメルクマールのため続けているが、この習慣で得たことは「インプット
した知識もあるが、各種の題材を探し出し、その要点をまとめ上げる過程で
身に付いた本質を見抜く視点と、それを起承転結にシンプルにまとめる論理力
がついたこと」理構成力こそが、自分の核である。その核?はウネウネと

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11月18日(水)
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