ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5284,閑話小題 〜高齢者運転の講習と適性検査
こともある。 まず、感覚と現実をデカルトは疑った。なる程、デカルトは
近代哲学の祖。ここから、まず疑うのが知性、理性の出発点。膨大の情報化の
真っただ中で、このへんの事を、よく分かってないと、その洪水に流される。
いわゆるB層の人々になってしまう。割り切ってしまえば、それも良いが。
哲学で自分をつくろうとしているのだから、現実も、感覚も、まず疑うこと
から出発しないと・・ あの人たち?のようになる。ーその辺を抜粋ー
≪ ◎ 最初に疑ったのは、「感覚」である。一般的には、自分が見たもの
感じとったものは絶対に正しいと考えたくなるが、デカルトはこれに依存して
はならないとした。なぜなら、見えているもの、感じているものは、しばしば
「錯覚」を起こすからである。 ・・・要するに自分からの確信は世界を正確に
とらえているとはかぎらない、ということである。逆に、この錯覚にさえ気を
つければ自分の感覚もあてになる、とも言えるが、デカルトは、どんな場合も
間違いなく依拠できるもの、条件なしのものを追求しているので、感覚には
依拠できないとする。
◎ 次に疑いにかけたのは「現実」である。実は第一の疑いである「感覚」と
この「現実」とは重複した部分がある。実際に見ているものは、「感覚」でも
あり、「現実」でもあるからだ。だが、自分が今、経験していること、つまり
感覚も含めて把握していることが「リアル」だ、というイメージならば「現実」
を疑うデカルトの意図は少し明確になる。この「現実」に対してデカルトは、
もしかすると、今現実と自分が思っているものも夢ではないか、と疑ってみた。
夢なのか現実なのか、その見定めができない、ということである。こでもやはり、
自分が夢を見ていないということが証明されれば問題はなくなるのだが、むしろ
デカルトは、その根拠を必要としているので、確かなことではないとみなした。
◎ そして第三に、デカルトは数学を疑う。彼は最も擁護したいものを一度
懐疑にさらしたことになる。数学的な真理は確かに、その体系においては真理が
成立しているかのように見えるが、新たな真理が発見されてしまうと、今まで
信じてきたものもあっけなく崩れることがある。デカルトはここで、数学を
特権視せず世の中に多々ある約束事と同様のものとして、不確かなものとみなす。
このようにしてデカルトは、用心く、私たちが最も依拠するであろう「感覚」
「現実」「数学」にそれぞれ落し穴があると強調する。つまり、特に確からしい
と思われているものさえ不確かなのだから、「すべてのものごとは不確かなもの
なのだ」ど判断するのだ。≫
▼ 般若心経の「色即是空」の、色が現象であり、受想行織が感覚になる。
それらの全てが、即、空であり、あてにならないとデカルトは看破した。
まず常識を疑うことが第一歩だが、それを疑っている自分の感覚を疑って
かかることこそ必要である。緑の原野からサバンナに出てみて、
「あの原野での出来事は何だったのだろう?」と、振り返ると、何も疑問を
持たないで同じ行動パターンを繰り返していた自分が見えてくる。
そして、現在も同じようなことをしている。根こそぎ、否定出来ない。
それをするには常に死を意識しなくてはならない。
しかし、目を背けている弱い自分が、ここにいる。
・・・・・・
3812, 世の中、すべからく代理・代行 −2
2011年09月02日(金)
国会議員、地方議員も間接民主主義による、国民や地域社会の代理・代行業。
・セブンイレブンなどのコンビニは、車や徒歩で10分以内の住民が、買って
10分以内に消費するニーズを満たす代行の店。土地持ちのオーナーに
全国区レベルの情報とシステムの提供で、互いの利点を生かしあっている。
・配送業が供給過剰のため熾烈な競争に入ったが、その中で一部業者は逆に
成績を伸ばしていった。家電なら、TVやDVD、冷蔵庫、洗濯機などの配達先の
取り付け作業を家電店に代わって請負うのである。パソコンもしかり。
運送業者が電器の取り扱い経験者を運転手として雇えばよいのである。
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09月02日(水)
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