ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5086,タガメ女の正体  ー@
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
  ーまずは、その抜粋からー
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。
 自己の死は「誰にも替わってもらうことができないし、誰の助けを借りる
こともできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まっておらず、
その先にまわってみることなど決してできない、自己の究極の可能性」と。
そしてハイデッガーは、人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を
不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり「死に臨む存在」
なのだと主張するのだ。・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方は
まことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠』のように、つねにおのれの死を
見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまく
のみこめない。自己の死についてのハイデガーのこうした主張に対しては、
少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無』で異論を唱えている。
彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を
除き去ってしまう、まったく不条理な偶発事なのである。彼に言わせると、
私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、
私の死も、理解したり対処したりすることのできない不条理な事実なのだ。
ここで面倒な議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、私もサルトル
に一票を投じたい。こちらの方が私の感じ方に近いからだ。 ハイデガー自身、
『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念で
あることを認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざる
をえないのだと主張していたそうである。・・・つまり、私たちは生命の大きな
流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそうした個体
とし生きているが、やがてまた元の大きな流れに引きもどされ蕩々と流れてゆく。
それが個体にとっての死なのだ、とそんなふうに思うようになってから体調が
落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分になったときも、
それほどジタバタしなくなったような気がする。こうした一種アニミステイック
な死生観を整理し体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、
あまり体系化などしない方がよいのかもしれない。 本当に死が間近にせまった
とき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを言っていられるかどうか
自信がないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫
ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死
を思い抱くようになった。死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。
それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、その妄想を理性で乗り
越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく
大河に引き戻されて一滴が固体の死のイメージを述べているが、毎年同じ
木に咲く桜の花とも、それぞれのイメージがあるもの。
 ・・・・・・
3249, 最近のベーカリー事情
 2010年02月16日(火)
  * ベーカリーのファーストフード化
 数ヶ月前から週に2〜3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、
昼飯用のパンを買っている。サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、
カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。中でも食べられる。
300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、
専門店街の菓子屋が売っているオニギリを買っている。その御蔭か週一も外食に
出なくなった。要は気晴らしに出ていた外食が面倒になったのだ。
 ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外の
青山に去年の暮れにオープンした」と話してくれた。
・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べる)も出来るベーカリーで、
 レストランのような外観と、イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円

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02月16日(月)
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