ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4934,コトの本質 −4
漁業と交易の中心地となっている」という何でもないものだった。だが、三井はこのとき緊張からくる混乱の
極みに達していた。普段から冗談も言わない、根っから真面目な奴。ただ、男なら誰もが通る、ちょっとした
思春期の懊悩に、運悪く足元をすくわれてしまったのだ。「アラビア海とオマーン……」で途切れ、数秒の
ブランクののち、三井はぽつりと、「湖……」と続けてしまつたのである。その瞬間、大阪の片田舎の男子校に
笑いの爆弾が落ちた。教室に破裂した笑い声で本当に床が揺れていた。いったん笑いが収まっても、誰かが
ふたたび笑いだすと、波となって全員をまきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、もはや授業
どころではない。教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォローさえしていた。あれほど些細な
間違いを見逃さず、なべて正座を命じていた男の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。
三井の導いた笑いは「鬼」と陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の名前は学校中に轟いた。
あんなに笑った経験は、二度とない。 とことん生真面目な男が、私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。
「人間には無限の可能性がある」この言葉を聞くたび、思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と三井のこと。
私が笑いの偉大さについて身をもって知った、十四歳の夏の午後。】
▼ 以前に、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰かがドイツ語の訳をしていた。
「・・・ その時、遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」と、同時に遠くから、それを待っていたかのように、
「ウ〜 ワンワンワン」と犬の鳴声。その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。
あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。
・・・・・・・
3462, 純粋持続 −2
2010年09月17日(金)
* 純粋持続と自由
ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、選択の自由を意味する。
たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか
自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。 しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を
思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。
生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的に
創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為。
他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 物質は自らを
破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、物質が降りていく坂を登ろうとする努力をみることができる。
宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開である。そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」である。その時は空間時間は消え、没頭している時、
そこに「したいことを、しているという自由」がある。純心になって対象に打ち込んでいる時、時間も空間も超越している。
しかし我われは日常の煩わしい空間に縛られ、日常の反復を繰り返すだけになっている。 それらをカサブタと仮定すると、
その奥に隠れている真の時間が「純粋持続」である。 哲学は、固定、静止、実在するもの、定着したものを探究するのが常。
しかし、ベルクソンは「流動性」つまり「流れ」に注目する。一人の人間存在について考えても、その細胞は日々刻々と変化
しており、昨日と今日は、同じでない。生命の場合、同一状態が永遠に続くことはありえず、流れの只中に「ある」という
ことが保証されているに過ぎない。ベルクソンは、この「流れがある」こと、ならびに「流れの中で生きている」こと、
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09月17日(水)
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