ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6900,閑話小題 〜ゲルクッション、その後
続けている動機である。 もし続けてこなかったら、静的不均衡?に…
いや、現在の私が、その穴に陥っている? いや、不均衡じゃないし、
内面は間違いなく流れ動いている! と、これまた、日々、是、口実ですか。
・・・・・・
6171,閑話小題 〜座禅は心の安楽死 ー4
2018年02月04日(日)
『坐禅は心の安楽死 〜ぼくの坐禅修行記』横尾忠則 (著)
* あっちに行った者たち
< 悟りの境地とは、雪担さんは、悟った者のことを、あっちに行った者、
という呼び方をするが、雪坦さんはまさに、このあっちに行った人である。…
あっちの世界には観念が存在しないのだろう。あっちの世界は、こっちの世界と
何ひとつ変わっているわけではなく、このままであるという。雪坦さんのいう
現象界とあたり前の世界よりクリアーに知覚することが俗にいう悟りの世界と
呼んでいるものかもしれない。当たり前の世界は地球ができた時からずーっと
当り前で存在していているのだろう。われわれが生まれた時にはこのあたり前の
世界がちゃんと把握していたはずだ。それがいつの間にか、この感覚を忘れて
しまったようだ。>
< 現在から数えると17年ほど前に、ニューヨークで初めてドラッグを体験した。
目の前のグラスを掴もうとして手を伸ばした。この時、不思議な感覚を僕を
捉えた。本来ならぼくの手がグラスに近づくにしたがってその距離が縮まって
いくはずが、この時は全くそんな風には考えられなかった。僕の手が、たとえ
グラスと1センチのところにあっても、グラスに手が触れない限り手とグラス
の間の距離は月と地球の距離に等しいということを感じた。つまり、1センチも
何十万キロも距離に関しては変わりないということだった。距離の長短を決めた
のは人間で、神の世界では距離など無いはずだ。それと同じように、時間も
もともとないのかも知れない。この経験を雪坦さんに話したところ、あっちの
世界に似ているという。ドラッグの世界と根本的に違うところは、一度その
世界を経験してしまうと、泳ぎのコツを覚えると同じように、常にその状態
にあるという。その状態はきっと、カスタネダのいう分離したリアリティであり、
われわれが存在と呼ぶところのものというのだろう。いってしまった世界が実は
すでにあり――いやもしかしたらわれわれさえ‘いって’しまっているのかも
しれない―― しかし、誰もそんな風に思わないから、どこかきっと素晴らしい
世界があると思って、観念の世界を駆け巡っているのである。観念の世界は
あくまで観念で、観念の中なんぞに真理などあるはずはない。
―
▼「悟ったことがあるか?」と問われれば、「ある筈がないだろう!」だが、
それでは、「何かしら近い状態を思い浮かばないか?」と問われれば、
(「あとはオボロ―」の話は別として…) 至高体験なら数多くある。
主に大自然の景観に圧倒され魂を揺さぶられる瞬間の歓喜。 こっちから、
あっちの世界に同化した瞬間である。
前の会社で、取引先の営業やトップを含めた宴会で、一、ニの三で、盛上り、
集団による至高体験宴会を100数十回は開いていた。 その面白かったこと、
この上ない思い出だ。 他を加えると、どうだろう? 数知れず。
それらが、沈殿した砂金のように数メートルもあるだろうか? 時々、
『私の人生に良いことは殆ど無かった』とか、
『自分の人生を生きてこなかった』などの愚痴を聞き耳を疑うことがある。
過去に幾つかの創業と、それに伴うビルを立ち上げる度に、心の底で、
至高体験を経験してきた。事業を失っても、この悟りに近い行蔵は、魂の
作品として心底に残っている。上野界隈の美術館や、世界の主要都市の美術館
で、世界の御宝に魂を吸取られた瞬間も然り。
何度か経験を重ねると、それらが磁石の働きをし、自ずと、対象の魂に吸い
寄せられていく。至高体験の度に磁気が増し、様ざまな出会いを生むことに。
秘境ツアーは、大自然の景観に手順を踏んで、当たるも八卦、当たらぬも
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02月04日(火)
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