ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6828,閑話小題 〜今年買って良かったもの
厳しい階級社会が、本格的に来るということ! 第二次大戦から20年余の社会
主義化した、あれは、むしろ奇跡?地元の病院の眼科の先生が夫妻と聞いたこと
があった。歯医者はドクターではないが・・収入は似たようなもの?

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6099,閑話小題 〜チョイト哲学、「死」について
2017年11月24日(金)
                 <反・幸福論 佐伯啓思>
     * 「老いとは、死に至る重篤な病」だってさ!
 人生の一大事の「死」について、数多く引用し考えてきた。知識を持った
人間は、身近な人の死から自らにもやがてやってくる死の恐怖の予感に恐れる。
しかし、それは誰も自ら経験をしたことがない故、どれもこれもいい加減である。
死の問題を真正面に捉えると、深くニヒリズムに迷い込むことになる。その最たる
ことが、人生など「永遠の無=死」を前にして、無意味だという「生」に対する
否定な考えである。しかし、その真逆の「生」への極限の追及の本質を考える
足場が、そこに見てとれる。 永遠の無の中の、確かな「いま、ここ、私」…
――
≪ 終末の迎え方、「死に方」は、知恵や努力やカネやコネで人為的に操作できる
が、「死」そのものは、まったく人間を超えたものなのです。人は、「死」を前
にして、まったく無力であり、ただ頭を垂れるほかない。ここでは、全ての人間
の営みも文明も一気にすべての意味を失ってしまう。どれほど、人間が壮大な
建造物を建て、富を築き上げても、「死」を目の前にしたら何の意味もない。
近代人が理想とする「自由」も「幸福追求」もすべてが死を目の当たりにすると、
色あせてしまう。あらゆる存在を無意味化してしまうという点で、「死」は
「絶対的無意味」というしかありません。われわれは、しばしば「死を恐れる」
とか「死が怖い」といいますが、それは、「死に方が怖い」ということでしょう。
普通われわれは、「生」から「死」へと一挙に相転移するわけではありません。
「生」と「死」の間には、「生」でも「死」でもないような「病」と「老」がある。
「生」は徐々に力を失い、意味を薄めていき、世界は色あせていき、あげくに
「死」に至る。そのプロセスが苦しく、つらく、想像を絶するようなものであり、
屈辱的でさえあるのです。「死」に至るには、もはや「生」ともいえない「生」
を送りざるをえない。それに比べれば「死」は救済とさえいえるでしょう。
「生」の究極の時間からの解放であり、苦をもたらす物理的身体からの解放です。
「絶対的無意味」である「死」に対し、怖いも恐ろしいもありません。怖ろしさや
恐ろしさは、何かある意味を持った存在や事態についていえることだからです。
… 「死」は恐怖どころか救済であるのです。
しかし、この「絶対的無意味」は、こちら側でまだ生きているわれわれにとって、
何かある種の妙な感じを与えることも事実でしょう。≫
――
▼ <老いは死に至る重篤な病> とは、言い得て妙だが、現実である。
 死は、どうにもならない、ただ、ひたすら受け入れるしかないのです。
私も健康寿命の平均年齢に至り、いつ何時、介護に入っても不思議でない時節に
入っている。「老いていく」とは、「老いというの病の進行」とは、知らなんだ。
スポーツジムで、私の病の進行度は、これ如何に? と俯瞰すると、成るほどと。
「人生、良いところは還暦まで!」と曽野綾子女史が宣っていたが、その通り!
そして、12年近く経過したが、思いの外、「良いこと」が数多あった。それは、
「長年続けていたからこそ」の中の刹那な一瞬にあった。生きてきたように「老い」、
「病になり」、最後は「のた打ち回って死んでいく」。それで「良いんじゃない」
タップリと「麻薬」?を盛ってもらい、天国の階段を… 実際は真逆だろうが。

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5367,世間、社会、会社の意味とは ーA
2015年11月24日(火)
          ーなぜ日本人は「世間」を気にするのかー三浦朱門著
   * 西欧生まれの「社会」と、日本の「世間」はどう違うのか

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11月24日(日)
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