ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[383084hit]

■5716,フラッシュバック
 エボケー{現象学的判断伴止}とは、自分がそれまでとらわれていた
主観/客観という世界認識の方法の自明性を、いったんカッコに入れるという、
世界像の判断停止のことである。これにならっていえば、自分がこれまで
自明であたり前だと思っていることの一切を、デカルトのように徹底的に疑い、
すべてをいったんカッコに入れる。 〜フッサールの現象学的判断停止
について、哲学者M・メルロー・ポンティが、次のように説明している。
< われわれは徹頭徹尾世界と関係していればこそ、このことに気づく唯一の
 方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいは
この運動とのわれわれの共犯関係を拒否すること(フナサールがしばしば語って
いるように、この運勤に参与しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、
この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度のもっている
諸確信を放棄することではなくて―それどころか逆に、これらの確信こそが
哲学の恒常的なテーマなのだ― むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟
の前提として〈自明なものになっており〉、それと気づかれないで通用している
からこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させる
ために、われわれはそれらを一時さし控えねばならないこそそうするのである。>
 そのさいに重要になるのが、「内在」という現象学の方法である。
それによれば、自分の判断の根拠を、自分の「感じ」だけに置く。
いいかえれば、たいていのものは「可疑的」、つまり疑いうるが、疑いえない
ものがたったひとつあり、それが自分が「こう感じた」ということだという。 
簡単にいえば、他人がいうことではなく、「世間」の評価ではなく、自分が
素直に「感じたこと」だけを信じる、ということである。思いだしてほしい。
じつは、さきほどのべたように、これが阿部さんの「世間」論の方法だった。
自分が「感じた」ことだけを信じ、これに徹底的に言葉を与えてゆく。
すべてのものは疑いうるが、たったひとつ、疑いえないものがある。
それが自分の「感じたこと」なのだ。≫
▼「大病による長期休養」や、「長期間の旅」はエポケーになる。人
生には、一度、属している世界の外に出て、自分を見つめなおす必要性がある。
外側から、内側で「感じたこと」を感じなおす必要性である。以前から、
小さな洞窟内を自己に、その前にある湾を世間に例え、その外海を社会に
例えていた。自分(洞窟)と、世間(その前に広がる砂場)と、外界を見極めて、
外から、これらを見つめなおすことが必要である。所詮は、これらは集団幻想で
しかない、そのことを自覚するためにも! 
・・・・・・
4619, 君は1万円札を破れるか? ー6
2013年11月08日(金)
    * 内部表現とは? そして、内部表現の書き換えー@
「内部表現」という言葉が新鮮である。目には見えない「心(脳)」「無意識」
「潜在意識」ということ。人は、この内部表現によって自動操縦されている。
この随想日記は、「内部表現」そのもの。過去文を読むと、よくわかる。 
ーまず内部表現を記した部分を、この本とネットから抜粋してみる。
◇ 「内部表現とは、一言でいえぱ、その人に固有の情報状態です。
 この世界について、自分の認識している情報だけを書き込んだハードディスク
のようなものです。そして、情報である以上、それは書き換えが可能。
人間の認識をなんらかの操作によって、別の認識に換えてしまうことを
‘内部表現の書き換え’といいます。あなたが今、現にもっている内部表現は
必ず、あなた以外の他者による書き換えを受けています。」
◇「外界を視覚で認識すれば、視覚野での神経が活性化し、その結果が前頭葉
 で認識される。この視覚野から前頭菓までのすべての脳内での情報状態が内部
表現である。内部表現は神経の物理レベルの情報状態のみならず、概念や感情
など、心理レベルでの表現も含まれる。すなわち、脳内の物理レベルから心理
レベルまで含めたすべての抽象度における外界の表現が内部表現である。

[5]続きを読む

11月08日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る