ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4902,閑話小題 ーロボットエアコン
 私が5歳、9歳の時など、ものごとを深く考えることはなかった。10歳頃に親戚の葬式で、故人が焼却場で
骨になったのを目の当たりにしたときに「、何故、人は生きている間に好き放題に生きないのだろうか?」と思った。
死を目前にすると年齢に関係なく、人生を鳥瞰する視線が顔をだす。子供の頃から時間の始まりと終わりを突き詰め
考えていたマギーの頭脳には驚かされる。
【 時間に始まりはあったのだろうか? 終わりはあるのだろうか? 9〜12歳くらいまでの2~3年の間、
 私は時間をめぐる謎の虜だった。夜の闇のなか、ペッドに横たわったまま、よくこんなことを思ったものだ。
きのうという日に前の日があるし、その前日、そのまた前日と、覚えているかぎり日にちをさかのぼつていく
ことができる。でも私が覚えている最初の日にも、やっぱり前日はあったはず。自分の誕生日にも前日はあったに
ちがいない。そして、その前日の前の日も。・・・ どこまでも、どこまでも・・ いや、そうだろうか? 
 この、どこまでもどこまでも溯っていくということが、私にはうまく飲みこめなかった。そんなことは不可能に
思えたのであった。たぶん、きっとどこかに始まりはあったはずだ。でも、始まりがあったとすると、その前は
どんな状態だったのだろう? もちろん、何もなかった(まったくの無だった)のは明らかなわけで、そうでなければ
始まりなどありえない。けれども、もし何もなかったのだとすると、どうして何かがはじまることがでできたのか? 
その何かはどこから生じたというのか? 時間がひょっこりと( なんとも不思議なことに! )
 無から現れ、ひとりでに動きはじめたわけがない。無は無であって、何かではないのだから。とすると、始まり
ということ自体が思いも寄らないことであり、始まりがあるということもやはり不可能であるように思える。
こうして結局、時間に始まりがあったとは考えられず、始まりがなかったとも考えられないということになって
しまった。きっと何かを見落としているにちがいない、私はそう考えてみた。選択肢はこのふたつしかないのたから、
どちらかが正しいはずだ。 ふたつとも不可能ということはありえない。そこで私は、まず一方を集中的に検討して
から他方に移り、集中力が尽きたら、またもとに戻るという作業をつづけて、どこで間違ったのか突さ止めようとした。
 けれども、なんの手がかりもつかめなかった。私はこの問題に取りつかれベッドのなかだけでなく、しだいに日中も
考えこむようになった。初めのうちはカになってくれそうな大人たちに相談もしてみたが、彼らの反応に私の混乱は
かえって増すばかりだった。自分にはわからないと認めたかと言うと、そんな疑間を話題にしてもおもしろくない
といわんばかりに別のことを話しだけでなく、あからさまに見下し、「おやおや、そんなことに気をまわして時間を
無駄にしないほうがいいよ」とせせら笑うかのどちらかだった、私にはわけがわからなかった。】
▼ 神様が、ここで早めに現役からの退去(倒産)を命じたのは何故だろうか?と考えると、
 「ここで、娑婆気から一たん大きく離れ、哲学書にしろ、トルストイなどの古典的小説を腹を据えて読みなさい。
そして、自分の過去を振り返り、そして、現在の己を見つめなおし、人生の総括をすべし」という事だろう。
そのために、やはり哲学書を?み締める必要がある! その点、「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) を、
その直後、選択をし、その時の事象を噛み締めながら読んだことは正解であった。そして次は、この書である。
それと、この随想日記の過去分を再思考すること。
 ・・・・・・
3430, 我が家に新しいテレビが
2010年08月16日(月)
* 運送会社のサービス化とは
  ーまずは、商品搬入で垣間見た「運送会社のサービス」の話しからー
「運送会社でも、ただ運ぶだけでなくサービスを付加したところが、不況の中で検討している」という話しは
度々聞いていた。具体的には何かと考えてなかったが、一昨日の新しいTVの納品を見ていて、「これが運送会社の

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08月16日(土)
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