ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[383536hit]
■6803,閑話小題 〜デフォルメとは
ぶつける。『価値低減傾向』より性質が悪い話を聞く。日本社会の特徴の一つに
「同調圧力」の強さと「自尊意識の低さ」がある。自尊心が無いため、他者に
対する異質を取上げ、攻撃にまわる。 それは、歪んだ自虐でもある。
淀んだ社会では、仕方がないのか。
――――
2016/12/04
つれづれに哲学 〜嘆きの谷
「生きづらさからの脱却」岸見一郎著
* アドラーの「嘆きの谷」
私がみるに、悲観的傾向が強い人が、女性で3人に1人、男性が4人に1人
の割にいる。その中で更に強い人は1割ぐらいか。知人にも数人、非常に悲観的
思考の強い人がいる。連れ合いとの不適性があるが、何もかもを悲観的に捉える。
ある婦人、目を見張るほど美人だが、いや、だった?が、常時、ウツ状態。
誰も躁鬱の波を乗越えて生きているが、問題はマイナスの程度。アドラーはカント
同様、クル病だが、そのハンデを乗越え、フロイト、ユングにつづく三大心理学者
の一人になっている。根には、「その程度のことで、何で落ち込んでいるのか!」
があるため、説得力が強い。
〜その一節から〜
≪ 世界を「嘆きの谷」と見ようとし、いつも苦しんでいる人がいる。
アドラーはそのような人は「途方もない重荷を担って人生を歩もうと不断に
努力をする」と言っている。些細な困難をも誇張し、将来についても悲観的に
しか見ない。身のまわりで喜ばしいことが起ると不安になり、どんな対人関係
にも「影の面」を持ち込む。
「嘆きの谷」という言葉は元もと旧約聖書の『詩編』に出てくる。
エルサレムに巡礼する人は、乾燥のため枯れ果てた谷底の道を歩まなければ
ならなかった。このような人が、世界を「嘆きの谷」と見ようとするのはどう
いうことか。アドラーの解釈と違って、『詩編』では、神によって勇気を出し、
広い道を見ている人は「嘆きの谷を通る時でも、そこを泉とするだろう」と
言われている。生きている限り、「嘆きの谷」を避けては通れないが、勇気
ある人はそれを「泉」と見るのである。ところが、この世界の嘆きの谷とみて、
どんな喜べる機会にも、「カッサドラの叫び」しかあげない人がいるとアドラー
はいう。ギリシャ神話に出てくるカッサドラはアポロンに愛された。アポロンは
カッサドラに愛を得るために彼女に予言能力を与えた。しかし彼女は、アポロン
の求愛を断った。そのため、アポロンは誰も彼女の予言を信じないようにした。
カッサンドラはトロイアの滅亡を予言されたが、無視された。
アドラーは、<この世界を嘆きの谷とみて、「カッサンドラの叫びしかあげない」
というのは、不吉なことしか言わないという意味だが、決して、トロイアの滅亡
を望んでいた訳でない。
〜ネット検索に、「嘆きの谷」で調べると、
≪・アドラーは仕事の課題、交友の課題、愛の課題という人生には避けては通る
ことができない課題がある、という。これらの課題を解決する能力がないと
考える人は、なんとか理由を考えて、人生の課題から逃れようとする。
・アドラーが「劣等コンプレックス」という言葉を使う時、次のような意味と
して使っている。すなわち、「Aであるから(あるいは、Aでないから)、
Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用するという
意味である。このAとして他の人がしかたがないと納得しないわけにはいか
ない理由を持ち出すのである。
・神経症はこの劣等コンプレックスに他ならない。人生の課題を前に直面しよう
としなかったり、「ためらいの態度」を取って立ち止まる。「はい〜します、
でも、(yes...but)といって、結局課題に取り組まない。神経症に限らず、
人は意識しなければ、すぐに「でも」といってしまう。
<何かをしようと思う、しなければならない、「でも」と…>
・カウンセリングの時、あまりに頻繁に「でも」という人があって僕はその人が
「でも」というたびにカウントすることにした。本人はそのことを意識して
[5]続きを読む
10月30日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る