ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6142,読書日記 〜「続・下流老人」 ー4 問題は、最期10年を如何に?
しかし、前向きに生きれば治癒につながる、「だから」前向きに生きるとする
なら、その基盤は脆弱だ。「前向き」でいたのに亡くなっていった人は、周囲を
見渡しただけでもどれほどいることか。治癒を期待し前向きに自分を保つなら、
それでも再発進行した場合、「ならばどう生きても同じだ」と投げ出すことに
なりかねない。「だから」「ならば」「しかるがゆえに」の論理の危うさを
感じていた私に、「にもかかわらず」の哲学は頼もしく思えた。世界には
説明のつかないことがたくさんある。説明不可能性に耐えよ。そう著者に
言われている気がした。「何千年ものあいだ人類は怖れてきた」と彼が言う
世界の実相。人間が受け入れやすいようその上をおおっていたべールを、
近代科学がはぎとって暴いてみせたところでなお、人々が怖れているならば、
世界の実相がやはり「怖れるに足る」ものだからだろう。何千年も怖れられ
続けてきたものに、たまたま近代以降に生れたからといって、人間がひとり
丸腰で対峙することが、果たしてできるものだろうか。自分がニヒリズムを
どこまで貫けるだろうかという疑問もある。・・≫
▼ 死の淵から生還した人にとって、「にもかかわらず、生きる」より、
「にもかかわらず、生きている」ことになる。死は、特に己の死は、
直視できない永遠の課題。だから、宗教が必要になる。神の御国に
帰っていくイメージである。生くさい恐ろしい死のイメージを、長年かけ、
優しい神様がいる天国のイメージへの転換が必要になる。死んでしまえば、
それまでよ。にも関わらず、彼岸には、あの世が待っているイメージ。
で、以下の三年前の内容に繋がっていく! 丁度、あの修羅場?の最中
ーー。
2011/03/18
3279, 人みな骨になるならば −1
「人みな骨になるならば」 頼藤和寛 著
なかなか面白い人生論である。 副題がー虚無から始める人生論ーである。
初めから終わりまで、「人はみな骨になるならば」の虚無の思想が、どの言葉の
後ろにピッタリと付いている。といって、読んでいて気分が悪くならないのは、
本人の持っている温もりのためか。この本を書き終わった数年でガンが発見され
亡くなった。そのプロセスを書きのこした本『わたし、ガンです ある精神科医
の耐病記』も出されている。「斯う居るも 皆骸骨ぞ 夕涼み」(一茶)の句が、
この本のテーマである。そして次から次へと繰り返される虚無思想。
・「誰しも認めたがらないことではあるが、おそらくわれわれ一人一人の
人生が一種の無駄である。」とか。
・「我々には何十年という時間が与えられてしまっている。・・どうあがいて
みたっって、逃れられない人生という檻のなかに?我々は産み落とされて
しまったからには、檻の仕組みや外側がいかようであれ、にもかかわらず、
その檻の中で 一舞いしてみせる?しかないではないか」
・「人生に、意味なんて無い。けど、何かに意味を見出さないと、人は生きて
いけない。だから、自ら意味を作る。それはまるで、無神論者が祈る神の
ようなものだ」とか。宇宙人?の視線である。
ーここで「エゴ・トリップ」という幻想を紹介している。
【「わたしが生きようが死のうが大したことは、といった現実は非常に
不愉快な現実である。たぶん、宇宙から見れば、一匹のゴキブリや一本の
松が生きたり死んだりするのと大して変わりない。この現実から逃れるために
人間は実にさまざまのことをしてきた。われわれの自我は、そのような酷薄な
現実に堪えられないようだ。それに堪えるため人間は自分の意味を膨らませる
ため、自分を誇大視するか、あるいは自分が属する何かを大層なものにするか、
に心をくだいた。・・自分の存在を「なにものでもない。」という実態から、
「なにものか」であるような幻想へと昇格させようという営みの全てを
エゴ・トリップという。自分を膨張させようとする、あえない試みである。
これは子供の背伸びから、青年の客気、男女の虚栄や見栄、年寄りのあがきに
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01月06日(土)
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