ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6066,閑話小題 〜昨夜の同期会にて 
 先日、近くのチャンコ鍋チェーン店に久々に食事に行ったところ、
案内され小座敷の隣に80歳は超えている老夫婦の先客がいた。
少し妙な直感がしたが、別に気にはとめてなかった。しかし私たちが入店
した時には食事が終わっていたのに、私たちが帰る直前まで、そのまま御茶を
飲みながら周りの客の話を聞いている雰囲気が伝わってきた。それは別に問題
ないが、家内がセルフ・サービスのコーヒーを取りに行ったところ、帰りかけで
入り口にいた御婆さんが、家内に「足が痛くて歩けないんだけど、どうしたら
よいですか?」と話しかけてきたので、家内は戸惑い「私には、どうにもなら
ないんで、店の人に御願いしたらどうですか」と、少し冷たく答えたという。
連れもいるのに見知らずの人に訴えること自体が変で、明らかに痴呆症が半分
入っている風とか。私も腰痛を持っているので、その酷いときの辛さを痛感する
ので(痴呆が入ってなくとも)誰彼なく言いたいのも分かる・・・
長生きは有難いが、そこに精神的、肉体的苦痛の代償を自然は与える。老いた
だけ、無念が増す、ということか。 本気で「来年は存在ない」という思いで、
一日一日を生きる時節になってきた。あの人は誰かに愚痴を聞いて欲しかった?
のか。長生きはしたいが、老いたくない。この矛盾が老いの問題になってくる。 
――
2015/05/17
人生相談という気晴らし! 〜F
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
 さすがの個人主義の哲学者も、老老介護の相談には歯切れが悪い。
介護の世界は複雑で、根深い。極限の場面で、真実を知ったところで、
せめて、気晴らしになるぐらい。最期の最期は、宗教に頼るしかない?
≪ Q:  〜老老介護から人の〈生〉と〈制度〉を問う〜
 私は七十四歳の女性。以前の「死ぬ作法」の記事を読み考えるところが多く、
質問させていただきます。私は現在、九十五歳の母親の介護をしております。
昔であれば一番上の子供が還暦を迎えるころには親は天に旅立ってゆくもの
でしたが、医療の進歩もあり、寝たきりであっても延命治療が続いております。
世間では後期高齢者医療制度が問題になっていますが、むしろ末期の医療現場を
考えていただきたいと思っています。人が生きるとはどういうことであるのか、
死に近い位置から医療をはじめ生きるということを見直すことが必要ではないか
と思っております。哲学のご見地から、寝たきりとなった高齢者の生、死について
何かご示唆いただきたくお願いします。ちなみに私の兄弟三人は皆、病に倒れ
入院生活を送っています。私が倒れたら、どうすればいいものか不安で一杯です。
  A:  〜われわれは「生きている」ことの意味が分からないのです〜
これは大変難しいご質問です。私も大学でここ十年ほど「生命倫理」の講義を
受け持ちましたが、さまざまな学説を紹介することはできても、自分の意見を
言えといわれると、とたんに分からなくなる状態です。 逃げのようですが、
あなたのご質問に対して「哲学の見地から」何の示唆もできない、と言うほか
ありません。哲学は人を救えないものです。正確に言えば、世界とは、私とは、
時間とは、善悪とは、何か分からなくて悩んでいる人をある程度救えますが、
幸福になりたい人を救う能力は皆無だと確信しています。むしろ、哲学とは
不幸になってもいいから真実を知りたいという欲望をもっている人にのみ
開かれている。真実は必ずしも人々に慰めや、平安や幸福を与えるわけでは
なく、逆に不安や不幸を与えるとしても、あえてそれを追究するのですから、
相当ヘンな欲望ですね。そもそも、われわれは「生きている」ことの意味が
分からないのです。ですから、生きているほうが、死んでいることより「いい」
ことを論証できないのです。哲学は「いかに」生きるか「いかに」死ぬかを
教えることはできず(それを安直に言い出す哲学者はニセモノ)、人間が死ぬ
ことの意味そのものを問い続けることができるだけです。私も人間ですから、
直観的に「人を殺してはいけない」とか、「老人を虐待してはいけない」という

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10月22日(日)
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