ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6061,閑話小題 〜【猿の惑星― 聖戦記】
ー クオリア再構築 〜島田雅彦:茂木健一郎対談集
* 自由とは幻想でしかない
自由に対する脳科学者の「自由とは幻想でしかない」の切口が新鮮である。
現実に、囚人の自由に対する希求が果たして幻想か否か、何かから解放された
時の自由の実感が幻想かどうかは、解釈による。思いもよらない大自然の神秘
に触れて感動に打ち震えた開放感を何度も経験してきたので、その魂の自由も
幻想といわれても、何か納得ができない。 〜その辺りから抜粋〜
≪ 茂木:今となって、大変シリアスな問題は、「自由」とは何かということ
だと思うんです。自由競争の自由とは何なのか。そこに恐るべき深淵がある。
単純なことではないですよ、自由って。脳科学の立場からいうと、自由意思と
いうものは幻想としてしか存在しない。むしろ決まっているんです。
何かアクションを起こそうとする前に、無意識のプロセスでは選択肢はすでに
用意されてしまっている。アクションを起こすタイミングも決められている。
決定論的なんだけれど、意識を持っている「私」から見れば、自由意志がある
ように見えるというのが我々の公式的見解。自由というのは幻想なんです。
そこには枯れ尾花しかない。では自由競争、自由資本主義というのは何だろうと。
そもそも概念からして矛盾を含んだ用語です。にもかかわらず、いまだに多く
の人が、特にアメリカでは、自由競争やフリーダムをとても大事にしている。
島田:フリーダムとか個人主義とかね。個人主義はある特定の個人が儲ける
ためのひとつの前提であり、いびつな原理だと思います。個人の自由が目標
のようにいわれるのは、アングロサクソンの世界観であって、古代の人間や侍の
生き方を振り返ってみれば、そこに個人はありません。個人は主人に捧げる
もので、そもそも個人主義を本当にいい出したら、誰も戦争に行きませんから。≫
▼ <ベルクソンによると、「純粋持続こそが自由の源泉である。通常、自由と
いえば、選択の自由を意味する。 たとえば、ひとつの道を進んでいると、
その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進む
か自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。しかし、
ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、
空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。
生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものでは
なく、現在において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。
したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての
純粋自我による行為」という>。
感動、感激、感謝の最たる感情は、つかの間だが、その積み重ねが人生を
深め、豊かにしてくれる。この最たる(純粋)感情の蓄積が、純粋持続への
帰一に向かうことになる。14年以上続けてきた、早朝の、この文章書きも、
早朝の自転車散歩の習慣も、「純粋持続の帰一であり、発現としての純粋自我
による行為」になる。その結果が、自由なソリストとしての(歪な?)私がある。
・・・・・・
4964,閑話小題 ーオ〜〜
2014年10月17日(金)
* オ〜〜
驚き、感動の時の言葉である。人生の豊かさは感動の質量のトータルで
決まるといってよい。一瞬、「アッ」と息を呑み、それを吐く時に出るのが
「オ〜〜」。宇宙からの音が「オオ〜ム」というが、これに関係しているかも。
以前に旅行をした時、ベテラン添乗員が絶景に差し掛かった時に、先導をして
「オオ〜〜」と言い、その後、全員に合唱させて笑いを取っていた。
それを何度か繰り返しているうちに、全員の共同感動の合唱になって、
これが感動を大きく振幅させてていた。
ーところで感動詞をネット辞書で調べると、
☆『話し手の感動を表す「ああ」「おお」の類をはじめ、呼びかけを表す
「おい」「もしもし」の類 や、応答を表す「はい」「いいえ」の類も、
文法的性質が同じなので、国文法ではこれに 含まれる。』
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10月17日(火)
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