ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6049,「老人の壁」 〜読書日記 −1
 している限り永遠に悟りなどやってこない。むしろ神経過敏になる分だけ、
ろくなことなどない。 瞑想は、ただ、「気づき」のための時間である。
「気づき」と言うと、何かすばらしいことに気づくための時間と誤解する人も
いるかも知れないが、これまた誤解を招きそうである。言い方を変えてみよう。
英語で言えば"be aware of"、つまり、「〜に気付いている状態」、または
「目覚めている状態」とでも言ったほうが近い。ただひたすら、自分の周りで
起こっていることを、そのまま感じるための時間である。
 「ヴィパッサナ」という瞑想法がある。自分の呼吸を見ることだけに意識を
集中させる。吸う息、吐く息をじっと見つめる。40分間くらい自分の呼吸を
見つめることができるようになれば、とりあえず合格。 しかし、時間を
はかったりすれば、それは呼吸以外のことに意識が行っているわけだから
失格になる。しかし、あまりかたいことを言う必要などない。とりあえず自分
の呼吸を見つめていればよい。「無心」になろうとすることもない。
雑念がわいてきたら、それも悪くはない。そのうち色々と考えることも出るが、
それも無理に止めることもない。
 ただ言えることは、瞑想をするに、最初から何かの具体的な目的は持たない
ほうがよい。目的のない時間を取り戻すことが目的かも知れない。
皮肉なことであるが、瞑想状態のことを言葉で表現しうようとすると、
いつもこうなってしまう。 とりあえず40分間、ヴィパサナができるように
なったら何が起きるのだろうか。 何か良いことがあるのだろうか。
 これには、私はあるともないとも言えない。まずよいことなど何もないと
思っておいたほうが間違いない。少なくとも、瞑想中には99%、何も起きない。
清浄で、「目覚めた時間」を作りだすための稽古の場にすぎない。瞑想では
悟ることなどできない。特に、瞑想で悟りたいと思っているのなら、まず絶対
悟ることはできないだろう。
 もしあなたに何かのお悟りがやってくるとしたら、それはSEXをしているとき
かも知れないし、庭を掃いているときかも知れない。芋を洗っているときかも
知れない。金魚が泳いでいるのを見たときかも知れない。それは私の知った
ことではない。そして、あなたの知ったことでもない。
 Who knows it?  誰にもわからない。しかし、ひょっとしたら何かが起きる
かも知れない。 たぶん、やって損はないとだけ言っておこう。何が起きるかは、
起きたときのお楽しみ。≫
▼ この7年間、早朝のポタリング時に、大手大橋でヒキチャリをしている。
地球の芯に『球芯様』と命名し、橋の途中から、話しかけて対話をする。
幼稚だが、その会話が面白い。 
 <球芯様、おはようございます!>
≪ オウ、お前か。お前を通して、周囲の景色を見るのが一番の楽しみじゃ!
 ジックリと見回してくれ。それが私を呼起した見返りじゃ。それにしても、
ワシに命名し対話を求めるのは御前ぐらいだ。 大体が、人間は、どうでもよい
細かいことに気が向きすぎじゃ。もっと大自然に、道理に、無心になりなさい。≫ 
<それにしても絶景ですな> 
≪ 慣れるとは、恐ろしい。この美しさを、そのまま味わいば良い。
それがワシにとっての解放になる。この川のせせらぎ。飛遊する鳥たちの姿。
遠くの山々。そして、陽光と、雲の織りなす美しさ。こうして御前が、私に
見せてくれるのは有り難い。この見返りは、世界の絶景の場に、お前を導くこと
になるのさ。 ≫ 
 この内語の対話も一種の瞑想。この景色の美しさに気づいたのだから。
世界の絶景を数知れず見てきため、地元の絶景に気づくことが可能になる。
それが次の旅に、誘っていく。あり難いことだ。 あり難いことに気づくこと
こそ瞑想の目的である。感謝、感激、感動の触媒は、幾らも身近に存在している。

・・・・・・
5317,不平等を歴史に学ぶ 〜@
2015年10月05日(月)
    【『21世紀の資本』トマ・ピケティを私はこう読んだ 特集】
   〜‘不平等を歴史に学ぶ’柴山桂太著   新潮45・2015年3月号

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10月05日(木)
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