ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5986,閑話小題 〜最後の講義・6 ー石黒浩:対談
「幸福になりたい」と願う意志と、逆境にあっても光を見出す「幸福力」の強さ
にかかっているのだ。ただし、「幸福である」ことと「幸福を目的にする」こと
は違う。J.S・ミルがいうように、幸福そのものを人生の目的にしてしまうと幸福
にはなれないだろう。それは本末転倒であろう。なぜなら、幸福は行動の結果、
つまりミル風にいえば副産物であって、目標として提示されるものではないから。
ではどうやって幸福になるのか。私の考えでは、「幸福のベクトル」に乗った
行動の積み重ねによって人生を幸福で満たし、不幸を追い出してしまえばよい
のではないだろうか。ちょうど節分に豆まきで鬼を退散させるように、心の隙間
から入り込もうとする不幸を退散させ、幸福の光で心を照らしていくのである。
本書では、そのためにできる二〇の実践例を、幸福のレベルに応じて三つの段階
に分け、私の経験に基づいて語った。
 ところで、幸福に至るには試練を直視しなければならない。私の場合、最大の
試練は光を失ったことであった。だが、これを受け入れて自己の特色として
生かす術が身につけば、試練はむしろ幸福のための糧となり、最後には幸福の源
とさえなり得ることも、私は学んだ。だからいまではこれを試練としてではなく、
生物的な特色としてニュートラルにとらえ、シェネレスという造語で呼ぶことが
できるようになってきた。そしてこのような考え方ができてくると、幸福感も
高まり、おそらく幸福力も高まってくるのだと思う。
 そんな意味からも、本書ではさまざまなほかの試練とともに、この最大の試練
とどう向き合ったかを、これまでより深いところから語った。願わくは、これを
「障害の受容」のストーリーとしてではなく、あなた自身が幸福を追求するうえ
でのヒントとしてお読みいただければ幸いである。・・ ≫
▼ 幼くして視力を失う試練の中で、「幸福のベクトル」に乗った行動の積み
 重ねによって人生を幸福で満たし、不幸を追い出してしまうかを提示する。
老いるということは、死に向かい受容するプロセスでもある。その中で、幸福感
を維持するヒントが、ここに多く書かれている。 〜つづく

・・・・・・
5256,蓄群本能  〜ニーチェ「超」入門〜
2015年08月05日(水)
             〜ニーチェ「超」入門〜白取春彦著
   * 蓄群本能 
 誰も持っている『群蓄本能』。城下町では、その小さな世界で群蓄本能が、
互いの足の引張りあいになり、その個性を内に押しとどめるしかなくなる。
違うということが、マイナスの世界。割切るしかないとしても。〜その辺りから〜
≪ わたしたち現代人はただなんとなく、道徳とは個人の行為に関する規範だと
 思い込んでいる。あるいは、人間性が生んだ規範、社会を健全に生きるための
知恵のようなものだと思っている。 ところがニーチェは、「道徳とは、共同体
のために個々人の内部で作用する一種の畜群本能から生まれたものなのだ」
(『悦ばしき知識』116)という。 この畜群本能というのは、「共同体が個人より
も価値が高いのだから、個人の利益より共同体の利益を優先すべきということと、
「一時的な利益よりも永続的な利益を優先させる」という、国家や社会の全体を
益するための考え方を因習とし継承してきたあげく生まれた。
 たとえば、盗んではならないという身近な一つの道徳律を考えても、ニーチェ
の説はあてはまっているように見える。実際に、空腹ゆえにパンを盗んでも、
社会に損失を与えたとして罰せられる。そして、「個人よりも全体を優先する
という因習が覆う社会で人間は教育され、生活してきた」。よって、「人の心に
ある道徳性とは、これらさまざまな因習の全体に向かう感情にすぎないのだ」
になる。一般的な道徳が自然な心情や宗教の神の配慮から生まれてきたのでは
なく、利益の重さをどこにおくか、つまり功利がその出発点になる。
そう考えた二ーチェは、もちろん道徳の発生を理性に見るカントに反対する立場
にいるわけだ。二ーチェのこういう考え方は、現代哲学で使われている用語で

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08月05日(土)
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