ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5957,洗って使える 泥名言 〜2
だろう、天才だろう、まいったか!」と心の中で絶叫したいがために、とことん
利潤を追ってしまうのです。ひとことで言えば、現実の中の人というよりも、
想像力の中の人を相手にドーダしているのです。
問題はここにあります。現実の人間が相手の場合、ドーダと喝采のやり取り
にはおのずと限りがあります。しかし、想像力の中の人間が相手では、ドーダと
喝采のキャッチボールには限度というものがありません。いくらドーダしても、
喝采はいくらでも続き、これでおしまいということはないのです。
利潤の無限追求が、贅沢がもたらす幸福感という点では限度があっても、ドーダ
においては限度がないのはこのためなのです。 ドーダ恐るべし!
一度火のついたドーダは果てることがないのです。≫
▼ 著者は、ドーダが「自己愛に源を発するすべての表現行為」であり、
「想像力の中の人を相手にドーダしている」という。そうこう考えると、
世の中、こんな事で動いているのかもしれない。ここで、「ドーダ」を
「陽ドーダ」対「陰ドーダ」、「外ドーダ」対「内ドーダ」という
サブ・ジャンルに分類している。秘境・異郷旅行も、かつて同行したツアー
仲間に対して、「ドーダ、今度は、ここに来ているよ!」と、心の内で、
問答している? しかし、過剰な欲望ではない。その時に、考えられるだけ、
考えて決断した結果で、ドーダは、微塵もない。それがライフワークである。
・・・・・・
5227,「エリック・ホッファー自伝」 〜D『適応しえぬ者たち』
2015年07月07日(火)
「エリック・ホッファー自伝」中本義彦訳
* 適応しえぬ者たち
「季節労働者キャンプにいることが何を意味しているのかがわかった。
ここにいるわれわれはゴミの集まりなのだ、と。」
誰が好んで、ここに居るものか、社会に適応できぬ者たちが、ここにいる。
まあ、シビアである。 私の社会生活、アウトサイダーと自認していても、
適応できないだけかもしれない、 〜その辺りから〜
≪ ―開拓者としての放浪者?―ば かげた考えのように思えた。しかし、
白い砂漠を横切って歩いている間中、この着想について思いをめぐらせていた。
開拓者とは何者だったのか。家を捨て荒野に向かった者たちとは誰だったのか。
人間はめったに居心地のよい場所を離れることはないし、進んで困難を求める
こともない。財をなした者は腰を落ち着ける。居場所を変えることは、痛みを
伴う困難な行動だ。それでは、誰が未開の荒野へ向かったのか。明らかに財を
なしていなかった者、つまり破産者や貧民。有能ではあるが、あまりにも衝動的
で日常の仕事に耐え切れなかった者。飲んだくれ、ギャンブラー、女たらしなど
の欲望の奴隷。逃亡者や元囚人など世間から見放された者。そして、このほかに
冒険を求める少数の若者や中年が含まれる。おそらく現在、季節労働者や放浪者
に落ちぶれた者と同じタイプの人間が、一昔前は開拓者の大部分を占めていた
のだろう。新しい国への移住はほとんど例外なく、これに妥当する。
オーストラリア移住の前衛を占めたのは元受刑者だったし、シベリアに定住
したのは流罪者や囚人だった。アメリカで初期と後期の移住者は失敗者や逃亡者、
重犯罪人だったし、宗教的情熱に突き動かされた開拓者だけが例外である。
ともかく、この放浪者と開拓者の親縁性の発見は、私の心を強く捉えた。
それから何年もの間この発見、表面的には放浪者にも開拓者にも関係ない考察と
絡みあい続け、それまで関心を抱くことがなかったテーマについて考えるよう、
私を導いたのである。そして、人間の独自性とは何かという根本的な問題に
突き当たったのだ。
人間という種においては、他の生物とは対称的に、弱者が生き残るだけでなく、
時として強者に勝利する。「神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きもの
を選ばれたり」という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。
弱者に固有の自己嫌悪は、通常の生存競争よりも遥かに強いエネルギーを放出する。
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07月07日(金)
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