ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5935,閑話小題 〜「翔猿〈とびざる)」とは
行きたい場所…。時間が無い、失敗できない、という緊張感の中で、優先課題が
はっきり見えてきます。死に方を考えるとは、生き方を考ることでもあります。≫
▼ 数年前に、近所の家内と親しかった友人が、この病気で亡くなった。
 家内が参列した葬式の主人挨拶が壮絶。 故人が呼吸困難になって、、
『オトウサン、苦しい、助けて!』と、泣き叫んでいたが、何もしてやれない
ジレンマ。 何度か、夢の世界に没頭し、呼吸困難になった経験があるが、
呼吸困難の苦しみと恐怖は並大抵でない。誰もが通らなければならない死に際
の断末魔の苦しみ。遠くない将来、私も通らなければ道、恐ろしい限りである。
 この恐怖感があればこそ、以来、40回の秘境・異郷旅行と、この5570回の
随想日記を続けた原動力になっていいた。 何せ、誰もが直ぐに死ぬのだから。
「いま、ここ、わたし」を生きなければ! 生まれてきた甲斐がない。

・・・・・・
5205,個々にとっての人生は、永遠である!
2015年06月15日(月)
      『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか』堤未果:佐治晴夫対談
  * 自分は自然の一部分である
<生まれる前の記憶がなく、一人称(自分)の死をみることが出来なければ、
その人にとっての人生は最初も、最後もない「永遠」ということかも知れない>
といいうことは、各自の人生は、永遠の時空の中の一点の光ということになる。
それからして、「自分とは、自然の中の一部分」が、論理的に納得される。
≪ 佐治: メリカのネイティブの考えている神はキリスト教徒とは違って、
 神道というか、わたしたちの感覚に近いです。彼らは、人が死ぬということを
「姿はなくなったけれど、鳥になったりしている。いまはたまたまこういう
 姿になっているが、魂は不滅のものだ。だから死を恐れることはない」
 という。川は先祖の血液なのだとか。どれも自分の体の一部として自然
 そのものと一体になっているんですね。
堤:「自分は自然の一部だ」と感じると、死が怖くなくなると?
佐治: と、いうことでしょうね。彼らも人が亡くなることはもちろん悲しく、
 みんなで弔いをするけれど、死は人間の姿をしていたことへの終結宣言で、
 次があるということです。・・
堤: 私は父の死を前にしたときは、なかなか受け入れられませんでした。
佐治: いままで息をしていた人が、姿はそのままだけれども息をしていない。
 モノになってしまったというのは、なかなか受け入れられないものです。
 自分で自分の顔を見ることができないように、人は自分の死を見ることが
 できない。見ることができるのは、他者の死だけです。となると、誕生前の
 記憶がないとすれば、その人にとっての人生とは、初めもなければ終わりも
 ない「永遠」だということになるのかもしれない。しかも、その人が残した
 ものは、現世の人々によって引継がれて?それが人生というものなんでしょう。
佐治: 世のなかは対極のものからできています。「生きるとはどういうことか」
 を知るためには、「死ぬ」ことがどういうことか知る必要がある。
 対極から考えていかなければわからない。死を知るには、じゅうぶん生きて
 みないとわからないと、いうことですね。先ほどもいいましたが、他者の死と
 身内の死では感じ方にものすごく落差があるので、身内の死を経験していなけ
 れば人への慰め方もわからない。悲しんでいる人には、ただ黙って寄り添う
 しかないでしょう。寄り添うことが究極の愛ですからね。何もできない自分は
 無力ではあるけれど、相手にただひたすら寄り添うことはできますよね。 ≫
▼ 死とは、「生前の状態に戻ること」を知れば、さほど深刻になることもない。
 だからこそ、生きているうち、一期一会で生きなければならない。
「自分は(自)然の一部(分)である」であるならば、自分の死、個々にとって
の人生は永遠だが、小さな入替わりでしかない。真剣に考えても考え損になる?
としても、考えなければ、そのことさえ気づかず終えてしまう。ふぅヾ(´ε`;)ゝ

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06月15日(木)
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