ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[383074hit]

■5894,本物の教養 −4
ジャンルに、一定レベル以上の深い造詣を持っているのです。数学のプロでも
ある経済学者のピケティが、文学にも並々ならぬ造詣を示したのはまだ記憶に
新しいところです。】

▼ 読書の質量のベースと、経験の質量の総量が、その人の素養になる。
 その素養の範囲でしか、人間は理解できない。それは独りで、長年かけて蓄積
していくしかない。基本は独学である。学校は、独学のベースを教わるところ。
また教養という点で都会の方が遥かに、刺激の機会に恵まれている。今では
ネットで世界が繋がったが、生の現実社会からの刺激も濃厚で面白い。
 外(世界)は広く、内は深いことを知るには、外に出て、それぞれの
内側をしるしかない。山は歩いてこない。自分から行くしかないが…
  
(ある内なる素朴な質問)
:何で、分かったようなことを書いていて、こんなバカなの?
:バカは死ななきゃ治らない。バカと気づいてない人よりは、少しまし。
:としても、バカはバカ! 気づいてない人など関係ないだろう。ったく!
  〜で、以下につづく〜 
 
・・・・・・
5164,パレーシア 〜真実を語ること
2015年05月05日(火)
  * ソクラテスのパレーシア 
            〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 危険を冒しながら真実をかたること。これがパレーシアだが、とはいえ、
社会において、その実行となると難しい。このブログを書き続けていると、
己の程度を曝け出し、多くの人を揶揄し傷つけてきた。気遣っていてもである。
想定の対話の相手を、数年先の自分にしているが、後で読み返し、第三者の
目を想うと冷や汗が出ることしばし。しかし、飾っていたら、長続きをしない
ことを自分が一番知っている。 〜以下の箇所は、哲学の本質を述べている。
≪ ソクラテスにとって最も大事なのは、相手をやりこめることではなく、
 自分の魂を磨くことであった。そのために命懸けで対話を行った。
この営みは「パレーシア」(真実を語ること)と呼ばれている。パレーシアとは、
危険を冒しながら真理を語るという実践を意味するギリシア語。ソグラテスが
裁判の際に立ち向かったやり方が、まさしくこのパレーシアである。
 たとえ心の中で真理が発見されたとしても、「私が思う」だけでは、それは
パレーシアとは無縁なのだ。パレーシアを通じた魂の鍛錬こそ、命のあるかぎり
やめてはならず、見返りを求めることなく、純粋な熱意に発した無償の責務で
あり、かつ、個人の内面的な人生訓にとどまるものではなく、結果的には他者や
共同体にとっても有益なものである、と考えられた。それゆえ、政治家になり、
ポリスを統治し他者の魂を気遣いたい者は、まず自分の魂を気遣うべきである、
とソクラテスは強調する。自分を気遣わない者は統治者としては不適格なのである。
ここには、身の魂の鍛錬に専心することが、他者や共同体を気導つことよりも
優先されるいという揺ぎのない確信が表明されている。 ・・(略)
ソクラテスの対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための(もしくは
認めさせるための)技術ではなく、相手に「問いかけること」、相手の主張を
「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この
「聞くこと」のための手法という点にあったのである。何かを「知っている」
から語るのではなく、何も知らないか、もしくは何ごともよく分かっていない
からこそ相手から何かを引きだそうとする。パレーシアの原点はここにある。
それゆえパレーシアとは「実直に語ること」ではあっても、単に一方的に
「包み隠さず語る」ということではない。ソクラテスのパレーシアは、政治家の
ように多数者に向かって語るものではなく、密接な一対一の関係が必要である。
またこの対話は、自分が主役としてふるまうのではなく、相手の話を引きだす
ようなやり方で行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分自身に
ついて語ることになる。 ここで、注意しなければならないことがある。

[5]続きを読む

05月05日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る