ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5787,閑話小題 〜どうも咽喉風邪が…
苦しみが心の状態に与えるのである。このことを正しく理解することは、
生きる価値のある人生を謳歌するための前提条件である。
 では、どのような心の状態が生きる喜びを奪い、逆に、どのような
状態が喜びを膨らませてくれるのだろうか。
 世界観を変えるということは、短絡的な楽観主義に切り替えることでも、
逆境を軽減するために人工的な陶酔感に浸ることでもない。
不満や欲求不満の奴隷になってしまうと、心はとりとめなく混乱してしまう。
それは、廃嘘の壁を塗りたくるように愚かな行為であり、ただ、「幸せだ、
幸せだ」と繰り返し自分に言い聞かせるような無駄な試みに過ぎない。
幸福を探求することは、ばら色の眼鏡を通して人生を見ることでも、世の中に
はびこる痛みや不完全なものに目を閉ざすことでもない。幸福はまた、
あらゆる犠牲を払って狂喜を長続きさせようとする試みとも異なる。
憎しみや執着などの、心をゆがめる毒素を浄化することであると同時に、
実体のない上辺の姿とあるがままの真実の姿の間のギャップをなくす作業
であり、物事を大きな視野で展望する方法を学ぶことである。
そのためには、心がどのように機能するかをよりよく理解し、物事の本質を
正確に洞察する力を体得することが必要となる。なぜなら、苦しみは、
その最も深い部分で、現実についての本当の性質を誤って把握してしまう
ことと密接につながっているからである。≫
▼ 人生は生きてきたとおり老いて、死んでいくものと実感する。
 〜幸福とは、命を慈しむことに他ならない〜 人生は命を慈しむこと
である。そのためには、物事の本質を把握しなくてはならない。
学び続けなければならないのである。世界は広くて深い。
・・・・・・
5057,閑話小題 〜「字のない葉書」
2015年01月18日(日)
   * 「字のない葉書」
  向田邦子のエッセイ、「字のない葉書」がよい。 〜途中からだが・・
≪ ・・終戦の年の四月、小学校一年の末妹が甲府に学童疎開をすることに
 なった。すでに前年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、
下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったが、三月十日
の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家
全滅するよりは、と心を決めたらしい。妹の出発が決まると、暗幕を垂らした
暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を
付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ポストに入れなさい」と言ってきかせた。
 妹は、まだ字が書けなかった。あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束を
リュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くように
はしゃいで出かけていった。 一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。
紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って
行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださった
とかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。
 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の
小マルは、ついにバツに変わった。 そのころ、少し離れた所に疎開していた
上の妹が、下の妹に会いに行った。下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干し
のたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いた
そうな。まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行った
とき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に
寝かされていたという。(略)・・
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、「帰ってきたよ!」と叫んだ。
茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、
やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて
泣くのを初めて見た。あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に
近い年になった。だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのか

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01月18日(水)
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