ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File118】十七萬接続達成記念・・・再録/よろず観戦日誌〜男たちの大和
呉鎮守府首脳の了承を得た小林参謀は、呉軍需部長島田少将と協議した結果、重油タンクの底に溜まっていて動力ポンプでは汲み出せない帳簿外の燃料を、手動ポンプで汲み出し大和以下の第一遊撃部隊各艦に補給する事を決定。これが軍令部にバレ、万が一責任を追及された場合には、出航前の慌しい中で命令が正確に伝達されず、取り合えず積み込めるだけ積み込んで、過積載分の重油は後に戻すつもりだったが出撃時間に間に合わなくなった・・・という言い訳まで考えていた。その後、松岡第二艦隊参謀長及び先任参謀山本大佐に、この旨を報告・・・早速呉及び徳山の燃料廠で重油の積み込みが開始された。しかし呉及び徳山燃料廠では、直接大和が接岸して給油できなかったので、一度駆逐艦に給油し、洋上で大和へ駆逐艦から給油する方式が取られた。重油タンクから手動ポンプで汲み上げ、更に駆逐艦経由での給油の為に時間はかかったが、苦労の甲斐あって大和には4,000屯、二水戦旗艦矢矧に1,300屯、四駆及び十七駆、二十一駆所属各駆逐艦は満載、と合計で10,500屯が給油された。当初軍令部からの指示によれば第一遊撃部隊に給油される予定の重油は4,000屯であった。これは当時の海上護衛総隊司令部参謀大井大佐の著書「海上護衛戦」の中に・・・海上護衛司令部は、戦局がいよいよ厳しくなる中、極度に逼迫した国民生活に必要な物資を優先して日本国内に運び込む為に、海軍省と軍令部に懇願して海軍管理下の貯蔵重油から約7,000屯を護衛総隊艦艇用に確保していた。ところが「大和以下第一遊撃部隊の沖縄特攻出撃が決定したので、7,000屯の重油割当分から4,000屯を差し引く事が決定された」との連絡が大井参謀に伝えられる。慌てた大井参謀が連合艦隊司令部に電話で確かめると、応対した連合艦隊参謀が、その旨肯定した上で、以下の様な連合艦隊司令長官の訓示を伝えてきた・・・「光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず・・・」それを聞いた大井参謀は、怒りが込み上げ「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ!馬鹿野郎!」と叫ぶと受話器を投げ捨てた・・・と言うエピソードが伝えられている。当初は艦隊の片道分4,000屯の予定だったが、結局二倍半以上の量が積み込まれていたのだった・・・でもこんな事なら、護衛総隊艦艇用にも、帳簿外の重油を回せば良かったのに・・・これも旧海軍のロジスティック軽視の現われかと思うのは私だけだろうか?

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻三】
吉田満氏の著作や他の大和生存者の方々による著作では、殆んどに「片道燃料」という記述が見られる。この事から当時の下級士官や下士官兵乗組員の間には「片道燃料で出撃する」という事が当然の如く流布していたと思われる。他の航空機特攻について書かれた戦記を読んでも「片道燃料」という記述が多分に見られるが、この場合でも、実際は出撃しても接敵出来ない場合があるので「片道燃料で出撃」と言う事は殆んど無かったのだが、やはり一億総特攻が叫ばれる中で、特攻作戦従事者や国民の精神意識を高める必要から生まれたのが、この「片道燃料出撃説」ではなかったのか、と思われる。さて本題はここからである・・・大和以下の第一遊撃部隊の艦艇に、当初の作戦予定に対し二倍半以上の燃料が積み込まれた事は解った。これが多くの著作やサイトで「往復燃料積載説」の根拠になっているのだと思う。ところが大体にして、どの著述もそれ以上の事は言及されていない・・・往復分の燃料が積み込まれていた・・・とあるだけなのである。これでは「友だちの友だちのそのまた友だちから聞いた口裂け女や人面犬の話」と同じレベルである。以前にも書いた事があるが、仮にも軍オタの端くれを自称し、自分の意見をサイトで公表するのなら、物事をもっと物理的(数値的)に分析する目が必要である。そうでなければ「南京事件において、限られた時間内でたった数丁の軽機関銃で数万にも及ぶ捕虜を射殺した・・・」と言う話を鵜呑みにして、そのままサイトで発表しているのと同レベルとしか言い様がない。そこまで言うのならお前はどうなんだ、と言われる事を覚悟して、解る範囲で大和の性能緒元から数値を拾い、素人計算で「片道燃料説」を検証して見る事にした。


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04月15日(土)
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