ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File084】漆黒の大陸・・・多勢に無勢【後編】
【カーツーム・・・マフディー・ムハマンドVSチャイニーズ・ゴードン】
さて19世紀末のアフリカを舞台にした多勢に無勢≠ネ作品としてもうひとつご紹介しましょう・・・今や全米ライフル協会の会長として政府にすら大きな影響力を持ち、アメリカ国内で銃の乱射事件が起こる度に現地に乗り込んで行って銃の所持≠フ正当性を声高に説き、本年度アカデミードキュメンタリー長編賞を受賞したマイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中でも老いてもなお衰えていないお姿を曝して≠「た御大チャールトン・ヘストンが、自らの才能に自信満々で自尊心の強い悲劇の将軍チャールズ・G・ゴードンを熱演した「カーツーム(KHARTOUM1966)」であります。このカーツーム(別名ハルツーム)の戦いは、前述のズールー戦争≠ノ比べ、ネット上でも比較的豊富な史料を見つける事が出来ました・・・
19世紀末の中東情勢
19世紀末になると、もはや植民地の富によって国家が繁栄する、と言った時代ではなくなっていました・・・植民地に派遣する軍隊の経費は、本国経済に大きく影響していたからです・・・英国にとっては、インド以外の植民地はもはや重要ではなく、またカナダやオーストラリア、ニュージーランド、南アメリカも独自の自治を推し進めていました。そんな中で中東地域、特にエジプトはインドへの重要な経路であり、支配するオスマン・トルコ帝国とも良好な関係を維持していました。当時のエジプトはオスマン・トルコ帝国に任命される太守が治める土候国家群で、英国は政治や軍事面のアドバイザー的性格の強い副太守や総督を派遣しておりました。しかし1888年にエジプトで反英暴動が起こった事をきっかけに英軍が軍事介入し、以降英国によるエジプト支配が進んで行きます。また内陸部にあるスーダンの首都カーツームには、エジプトから総督が派遣されナイル川の交易に関して関税を課し、また塩税を徴収していました。
マハディー登場
1880年イスラム教サマニヤー派の神学者ムハマンド・アハマド(1844〜1885)は民衆の支持を集め、自らマハディー≠称し・・・マハディー≠ニは正しき道に導く者≠ニ言い、マホメットの正当な後継者を意味するカリフ≠謔閧熏b「位を意味していた・・・反オスマン・トルコ及び反エジプトによるスーダンの分離独立と聖戦(ジハード)を唱え、彼の信奉者(アンサルと呼ばれた)たちが各地で過激なテロ行為を起こしました。これに対しスーダン総督は彼の捕縛を試みますが、巧みに逃走され、その間にも信奉者は増加しマハディー派は大集団と化して行きます・・・。1882年7000名のスーダン総督軍が編成されマハディー派討伐戦を実施しましたが、マハディー派の反撃に遭い壊滅・・・更に8000名の援軍も撃破され、カーツームなど主要都市が孤立する派目に陥いります・・・この時マハディー派の勢力は約30000名!英国は、これら孤立した各都市から自国民と軍を撤退させる計画を立て、その指揮官としてゴードン退役将軍が任命されました。
チャイニーズ・ゴードン登場
チャールズ・ジョージ・ゴードンは1833年生まれ。1852年英国軍工兵隊に入隊。クリミア戦争(1855〜1856)に従軍後、中国で起こった清朝政府に対する叛乱・・・洪秀全に率いられた太平天国の乱(1851〜1864)において、洋式に訓練された中国人部隊常勝軍≠率い、太平天国軍を撃破、以後チャイニーズ・ゴードン≠ニ呼ばれる様になります。1877年スーダン総督に任命され、以後スーダンの社会改革を推進しますが、1880年に健康上の理由により総督職から退きました。1884年、撤退作戦を成功させる為、再びゴードンが選ばれスーダン総督に任命され、カーツームに着任します。しかし当時のカーツームの状況は、英国政府が考えていたよりも遥かに悪化しており、撤退作戦は援軍無しでは不可能な状態に陥っていました。ゴードンは度々英国政府に援軍派遣を要請しますが、状況を楽観視していた当時のグラッドストーン内閣は、経費の掛る援軍派遣には消極的でした。
カーツーム陥落
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04月20日(日)
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