ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File077】合衆国軍VSインディアン激闘史・・・多勢に無勢【中編Vol.2b】
1882年
南部アリゾナやニューメキシコの居留地に押し込まれていたアパッチ族は、大酋長ジェロニモに率いられ、合衆国に反旗を翻しメキシコに逃亡。アパッチ族はインディアンの中でも最も好戦的な部族で、1860年以降コーチーズ、マンガス・コララドス、ビクトリオ、ジェロニモら酋長に率いられ、白人だけでなく同じインディアンの他部族やメキシコ領内への襲撃を繰り返し、合衆国軍との戦闘を繰り返した(「アパッチ峠の戦い(アリゾナ1862/7/15)」「ソルト渓谷の戦い(1872/12/26)」「タレット山頂の戦い(1873/3/27)」「ビクトリオの戦い(1879/10/16)」「ティナジャデ・ラ・パルマスの戦い(テキサス1880/7/30)」)同年9月クルック将軍指揮下の騎兵隊によりジェロニモ逮捕。
1885年
5月ジェロニモ再度逃亡。
1886年
「ジェロニモ再逮捕」9月4日アリゾナ州のメキシコ国境付近スケルトン渓谷でマイルズ将軍指揮下の騎兵隊により掃討され降伏。これにより全インディアンの組織的抵抗が終焉を迎えた。
1887年
合衆国政府は、過去の対インディアン強圧政策を改めて「ドーズ法(一般土地割当法)」を制定。従来の各部族酋長下で共同生活の習慣の廃止、各家長には160エーカー、成人男子への80エーカーの土地分与、生活基盤を狩猟≠ゥら農耕牧畜≠ヨ転換を強要。しかし分与された土地(しかも乾燥し痩せた土地で農耕に適さず、後に白人ブローカー達に買い叩かれる)は、過去インディアンたちが暮らしていた土地の僅か3分の1にしか過ぎず、残り大部分は結局白人開拓者のものとなっていた。
1890年
「シッティング・ブル殺害」12月15日暴動を扇動したとして、かつての大酋長シッティング・ブルに逮捕状を発行。連邦執行官が到着した時、シッティング・ブルは「私は行かない。さあ、みんな立ち上がれ。決起するのだ」と叫んだ。この時周囲のインディアンたちが騒ぎ始めた為、連邦執行官が発砲しシッティング・ブルは死亡した。
「ウーンデッド・ニーの虐殺」12月29日サウスダコタ州パイン・リッジ保留地内のウーンデッド・ニーにおいてゴースト・ダンスが高じ興奮状態のインディアンと彼らを武装解除しようとした兵士が衝突。第七騎兵隊分遣隊の兵士たちは「リトル・ビッグホーンを思い出せ、カスターを思い出せ・・・」と叫びながら発砲を続け、ビッグ・フット酋長以下のラコタ・スー族の女性や子供を含む約300名近くを虐殺した。
「フロンティアの終焉」同年、合衆国政府はこの国におけるフロンティアは消滅した≠ニ国勢報告書の中で宣言。インディアンたちは少数先住民≠ニ区別され現在に至る。広大な土地を奪われ、狭い保留地に閉じ込められ、個人別に痩せた土地を割り当てられ、農民となることを強制され、部族共同体の生活形態を壊され、自然や神や精霊たちとの生活をズタズタにされ、子供たちは白人との同化政策により親元を遠く離れた都会での寮生活を強制され、その精神から白人化させられて行った。このインディアン文明の終焉こそ真に白人たちが目指した勝利≠セった。
1998年
合衆国議会は、それ以前に結審していた特別裁判(インディアンの土地に関わる政府との事件を扱った裁判)の判決に従い、ブラックヒルズの代償として9000万ドル(及び1877年からの年利5パーセントの遅延損害金)をスー族に支払うという決定を下した。これは合衆国政府によるブラックヒルズの取得は不公正であったというのと、ララミー条約に基づき、当時の有権インディアン数の4分の3以上の同意を得ることなく締結された違法による、という理由によるものだった。
さて、長々と拝読ありがとうございました・・・これで貴官も「血の西部史」は充分ご理解いただけた事でしょう。さて次回はいよいよカスター将軍の最後・・・遥かなるリトル・ビッグホーンをお贈りする予定です。それでは【続く】
02月26日(水)
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