ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File077】合衆国軍VSインディアン激闘史・・・多勢に無勢【中編Vol.2b】
「アドービ・ウォールズ交易所襲撃」6月27日クワハディー・コマンチ族の若者クワナ・パーカーが、コマンチ族、カイオワ族、南部シャイアン族の連合軍を率いてテキサスの白人交易所を襲撃したが、合衆国軍の報復戦(ウィリアム・シャーマンの「総力戦宣言」)に遭い、降伏(1875年6月2日)。原因はバッファロー繁殖地域に白人の猟師が侵入した事で、明らかに白人側に非があるにも関わらず、多くのインディアンがフロリダ刑務所に投獄され、また残りはオクラホマの居留地へ移送された。
「レッドリバーの戦い」カイオワ族のローンウルフ、サタンタ、ビッグ・ツリーの各酋長がクアナ・パーカー酋長のコマンチ族と連合し、テキサス北西部で白人の開拓地や牧場を襲撃し、合衆国軍と抗戦した・・・が大部隊を投入した合衆国軍の前に10月24日降伏。
1875年
合衆国政府はスー族との交渉の為に使節団派遣。この時は「ブラックヒルズの買取(価格600万ドル)または賃貸(賃貸料年間40万ドル)」について交渉するも、スー族各酋長たちは売買価格7000万ドル以上を提示し交渉決裂。シッティング・ブルを中心としたスー族、対白人と白人に友好的なインディアンに対する敵対行為が多発。
1876年
合衆国政府は、スー族の敵対行為に対する問題収拾の為、軍による武力行使を決定。条約で認められているはずのインディアンの冬季狩猟を条約違反と見なし討伐軍を派遣(冬の作戦)、合衆国軍の各騎兵隊指揮官達は、インディアンが分散行動していると判断、作戦を楽観視した。しかしインディアン側はシッティング・ブルやクレージー・ホース等の下で残存戦力を結集、大規模部族連合軍を編成し待ち構えていた。インディアン側はゲリラ戦で、重装備かつ鈍重な補給馬車部隊を引き連れた合衆国軍を翻弄。「パウダー川の戦い」では合衆国軍を敗退させ冬の作戦≠ヘ失敗に終わった。この年クレージー・ホースはシャイアン族の女性と結婚し、結果3000名にも及ぶスー族とシャイアン族連合軍のリーダーとなった(シッティング・ブルが後援)。
「ローズバットの戦い(6/17)」「リトル・ビッグホーンの戦い(6/25)」については次回、詳細掲載。
1877年
「クレージー・ホース殺害」5月6日圧倒的な合衆国軍の前にクレージー・ホース率いるスー族降伏。シッティング・ブルは手勢を率いカナダへ逃亡。9月7日クレージー・ホース、獄中で殺害。合衆国政府はスー族に交渉使節を派遣し@ブラックヒルズ他多くの土地権利放棄A北部狩猟権放棄B交換条件として生活保証、についての条約を締結。
「ネズパースの戦い」アイダホでジョーゼフ酋長に率いられたネズパース族が白人に対し抵抗、以後四ヶ月に渡り合衆国軍の追跡をかわし逃走し続けたが、10月5日餓えと疲労の為カナダ国境近くで降伏。
1878年
「バノック戦争」アイダホ・オレゴン州境付近でバノック族長バッファロー・ホーンとパイユート族長エガンに率いられたインディアンが白人入植者を襲ったが、O・ハワード将軍指揮下の部隊により鎮圧。その後リトル・ウルフ降伏(1878年)シッティング・ブル降伏(1881年)により、1864年から続いた平原インディアンによる抵抗は終結する。
1879年
「シープ・イーターの戦い」アイダホのショショーニ族とバノック族が白人入植地を襲撃するも、E・S・ファロー中尉指揮の部隊により制圧。
「ミーカー虐殺」コロラド州で、鉛の発見により白人鉱夫が保留地に流入した事に怒ったユト族長ダグラスに率いられた一団が蜂起、居留地白人監督官N・C・ミーカー他を殺害。犯人は後に逮捕されたが、処分無し・・・。
1880年
全てのインディアン部族の保留地への強制移住実施。居留地内の土地は貧しく、また鉱物資源もない土地だった。不安定な気候、劣悪な給水事情・・・配給に頼らざるを得ない食料。居留地のインディアンたちは、精神的に追いつめられて行く。かつての自然の恵みに溢れた自由な生活の復活を願う中で、新しい救世主信仰である「ゴースト・ダンス」が発生。預言者や占い師が人々の中心となり、白人の滅亡と絶滅に瀕したバッファローや死んだインディアンたちの復活を祈り、老若男女が踊り続けた・・・。
1881年
「シッティング・ブル降伏」カナダのサスカチュワンに逃亡していたシッティング・ブルがノース・ダコタのバフォード砦で降伏。

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02月26日(水)
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