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ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File071】祝・製作四○周年記念特別編発売・・・実録『大脱走≠ュぅらぁ〜』後編
事件の当日3月14日夕刻、国許への早飛脚が送られ5日後の3月19日には早くも悲報が国許の家臣に知らされた。また幕府からの使者によって4月19日までの赤穂城明渡しが伝えられ、家臣は強硬派(城に立て篭もり引渡しを拒否)と穏健派に分かれ、藩内は大混乱となるも国家老大石内蔵助の尽力によって事態は鎮静、赤穂城を幕府の受城使に無事明け渡した。その後大石内蔵助らによって、浅野内匠頭の弟(養子)浅野大学長広に浅野家の家督を継がせるお家再興の運動が幕閣に対して行われる。この間、大石内蔵助は幕府や吉良側の探索を欺き、仇討ちの意思が無いように見せかける為、京都山科に篭り放蕩三昧の生活を送っていた。翌年元禄十五年7月に浅野大学の浅野本家広島藩へのお預けが決定し、お家再興の道を断たれるに至り、7月28日大石内蔵助を中心に仇討ち℃タ行が決定される。当初仇討ちの盟約には元浅野家臣の内94名が参加していたが、仇討ち決定までに多くの同志たちが生活の貧窮などの理由により脱落、最終的に大石内蔵助・大石主税親子以下47名の同志が残った。実際大石内蔵助の家禄千五百石以外の赤穂浪士の家禄は三百石止まりで、他の旧赤穂藩の重臣たちは伝手を頼ってさっさと他藩に仕官(再就職)していたと思われる。8月から11月にかけて大石内蔵助以下の同志たちが江戸に潜入、偽名を名乗り町人に化けたりして情報収集など討入りの準備に奔走した。12月14日吉良邸にて茶会が開かれるとの情報が入り、警備が手薄になると判断した大石内蔵助は12月14日深夜(正確には15日午前3時)に討入り(討入り部署)を決定した。

『旧赤穂藩士による吉良上野介邸襲撃・殺害事件』概要
日 時:元禄十五年(西暦1702年)12月15日 午前3時頃
場 所:江戸本所吉良上野介屋敷(現東京都墨田区両国2-8-10)
12月14日午後10時頃までに、吉良邸の裏門近くに米屋五兵衛という名で米雑穀を商い吉良邸の偵察(屋敷内の配置など)に当たっていた浪士前原伊助の店に集合した赤穂浪士総勢47名は、討入りの準備を整え待機していた。日も変った深夜3時半頃、屋敷内の寝静まったのを確認した赤穂浪士は表門隊(大石内蔵助以下23名)と裏門隊(大石主税以下24名)に分かれ吉良邸内に突入した・・・突入せよ!吉良邸討入事件。2時間余に渡る吉良家側との壮絶な斬り合いの後、炭蔵に隠れていた吉良上野介を発見、遂に首級を挙げる。赤穂浪士側の死者は無く数名の負傷者のみ。対する吉良家側は不意打ちを喰らった為もあって死者17名(一説に16名)負傷者28名。実に討ち入った赤穂浪士と同数に近い損害を出している。当時吉良邸には200名近い住人がいたと思われるが、その内半数以上は女中や下働きで、実際反撃できる士分や足軽は100名近くだったが、赤穂浪士は邸内突入と同時に、これらの寝所(長屋)の出入り口を封鎖し屋内に閉じ込めたので、応戦できたのは母屋に居住していた50名ばかりだったようである。午前6時、本懐を果たした赤穂浪士46名(寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命を受け逃亡)は泉岳寺に向かい、午前9時頃主君浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級を手向けた。吉良家と血縁関係にあった米沢藩上杉家では、吉良邸襲撃の報が伝えられると、当主上杉弾正大弼綱憲(吉良上野介実子)自ら赤穂浪士追撃の為の出撃の準備していたが、幕府老中からの使いが到着、諌められ涙を飲んで出撃を中止した。その夜までに赤穂浪士46名は、肥後熊本藩下屋敷(細川越中守/17名)伊予松山藩上屋敷(松平隠岐守/10名)長門長府藩中屋敷(毛利甲斐守/10名)三河岡崎藩上屋敷(水野監物/9名)にそれぞれお預けとなった。討入りの理由については、赤穂浪士の口上書≠ェ残されており、それによれば主君の恥辱と遺恨を雪ぐ為≠ニ書かれているが、実際は@幕府の刃傷事件裁定に対する抗議A仕官(再就職)の為のパフォーマンスの意図があったのでは、と考えられている。

【討入りその後】

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12月22日(日)
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