ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File123】スペイン内戦勃発70周年・・・誰がために鐘は鳴るなり豆戦車A
第一次大戦で中立を保ったスペインは、諸国からの需要により好景気が続いていましたが、戦後はその反動から不景気となり、政治不安も増長し国内各地で労働運動が激化しました。この様な状況下、1923年9月にプリモ・デ・ルベラ将軍による軍事クーデターが発生、国王アルフォンソ13世の承認により軍事独裁政権が樹立。反体制派への弾圧を強めた反動政治が行われます。しかし1930年1月にリベラ将軍が失脚すると独裁政治体制は崩壊。1931年4月に行われた地方議会選挙において左派共和派が圧勝し王制廃止が決定され、国王アルフォンソ13世は家族と共にイタリアに亡命し、共和制政府が樹立されます。これがスペイン(共和)革命です。しかし、この共和制政府も安定せず、混沌した政治状況が続きます。1936年2月に行われた総選挙では、辛うじて左派共産主義人民戦線が勝利し政権を獲得しましたが、政権内部では相変らず権力闘争が続き、スペイン国内では社会的混乱が続いていました。そんな中で軍部による人民戦線政府に対する不満は日増しに増大して行きます。さて1910年に陸軍士官学校を卒業した後、モロッコでの民族運動鎮圧で功績を上げ、30歳の若さで陸軍少将の地位に昇ったフランシス・フランコは、その後も順調に昇進し、1935年には陸軍参謀総長の職にありましたが、1936年に人民戦線政府が成立するとカナリア諸島守備隊司令官職に左遷され憤懣を募らせていました。そして国内外の軍部不穏分子と語らい、遂に1936年7月16日にスペイン領モロッコのメリリャ駐留軍を率いて武装蜂起・・・これに呼応してスペイン本土各地でも叛乱軍の蜂起が発生し、人民戦線政府軍との間で戦闘が始まります。叛乱軍は、マドリードやバルセロナ等では人民戦線政府軍によって鎮圧されますが、結局モロッコやスペイン南部・北部など国土の約三分の一を掌握します。こうして人民戦線政府と叛乱軍が国内を二分して血みどろの戦いを続ける事となるスペイン内戦が三年近くに渡って続く事になります。フランコ将軍率いる叛乱軍は、モロッコ駐留の陸軍が主流だった為、内戦勃発当初にはスペインの海・空軍は、人民戦線政府側に忠誠を誓っていました。その為、モロッコから地中海を渡ってスペイン本土に叛乱軍兵力を送り込む事が出来なかったフランコ将軍は、1936年8月ドイツとイタリアに援助を求めます。これに応じたドイツからは、空軍のユンカースJu52輸送機が提供され、スペイン本土に叛乱軍部隊を空輸。スペイン北部の叛乱軍部隊に呼応して、首都マドリッドを南北から挟撃する作戦を展開、更に全土の約三分の二を支配下に置きますが、その後戦線は膠着状態に陥ります。ここに至って叛乱軍と人民戦線政府は諸外国に本格的な支援を要請します。実は1936年9月に英仏主導によりスペイン内戦不干渉委員会≠ェ設立されており、英仏を始め独伊そしてソ連など27カ国が参加して不干渉協定を結んでいたにも関わらず、結局は叛乱軍側には独伊両国が、人民戦線政府側にはソ連がそれぞれ支援を表明し、内戦へ大きく介入して行きます。叛乱軍側の支援を表明したドイツからはコンドル軍団と呼ばれた空軍義勇飛行隊や戦車隊を含む陸軍部隊が、またイタリアからも大規模な陸・空軍部隊が派遣されました。これに対し人民戦線政府側には、ソ連から軍事顧問団や大量の戦闘機、戦車、火砲等の兵器の援助が行われ、さながら新兵器や新しい戦術の実験場的様相を呈して行きます。また世界各地から自由主義・共産主義・反ファシズムを支持する多くの知識人や労働者から成る義勇兵が集り、最終的に57カ国7万人以上となる国際義勇旅団(Brigada Internacional)も編成されました。こうしてスペイン内戦は第二次大戦の前哨戦とも言える国際紛争と化し、1937年4月史上初の戦略無差別爆撃と言われるゲルニカ爆撃を始め、多く血が流される悲劇が繰り返されました。1939年1月、叛乱軍によるカタロニア地方制圧の為の最大規模の攻勢が開始され、軍事的要衝バルセロナが陥落、2月には叛乱軍がカタロニア地方を完全に制圧し仏国境に達し、これによって西欧諸国からの支援手段を断たれた人民戦線政府側は、内部での反ソ連(スターリン)派と親ソ連(スターリン)派との対立抗争の激化もあって急速に戦力を喪失し、3月末には首都マドリッドが陥落。遂に叛乱軍の勝利によって内戦は終結しました。その後フランコ将軍は国家主席兼首相の地位である総統に就任し、独裁軍事体制を確立します。第二次大戦時には、開戦一年後の1940年10月に独総統ヒトラーから枢軸側への参加を要請されますが、英国本土航空戦での独空軍の敗退を目の当たりにし、枢軸側の勝利に対する疑問を感じていたフランコは、ヒトラーの要請には応じませんでしたが、内戦時に支援して貰った恩義もあり、大戦中は限りなく枢軸側に近い中立≠ニいう立場を維持しました。こうして1975年11月20日に死去するまで、36年間もの長きに渡ってその地位を維持します。フランコは死去する際に王制復活≠フ遺言を残し、これによって1931年に廃位させられた前国王アルフォンソ13世の子ファン・カルロス1世が1975年11月22日に即位します。即位後ファン・カルロス1世はフランコの独裁体制は受け継がず、民主政治を推し進めました。1977年には41年ぶりに総選挙が実施され、1978年の新憲法承認により国王は儀礼的な役割を果たすのみとなり、スペインは立憲君主制へと移行、民主主義政治が確立されました。

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07月18日(火)
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