ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File120】十八萬接続達成御礼・・・ボツ原稿サルベージ大作戦/ニッポン大戦車軍団A
『血戦奇襲部隊(THE FIGHTING SEABEES/1944)』の映画の荒筋については、前回の観戦記にて紹介させていただきましたが、その中に登場する日本軍戦車について紹介させていただく前に、米国の海軍建設大隊について簡単に説明しておきましょう。『血戦奇襲部隊』の作品中でも、その部隊創設過程が概略的に紹介されているのですが、米国海軍が戦闘地域において飛行場や補給基地、港湾施設などを建設し、戦闘支援の為に1941年に組織した部隊で、当初は民間人土木技術者主体で土木技師義勇隊(C.E.C.=Civil Engineer Corps)≠ニ呼ばれていました。時の米海軍港湾施設管理局長であったベン・モレル准将は、以前から民間人土木技術者主体による土木技師義勇隊ではなく、隊員の待遇や部隊への補給等を考慮された海軍の組織内での常設建設部隊の設立を唱えていたのですが、中々海軍の上層部には認められませんでした。しかし1941年12月の日米開戦の結果、海軍上層部は常設建設部隊の必要性を認め、既存の土木技師義勇隊や一般市民からの志願者によって最初の海軍建設部隊が編成されました。そして戦争が進むにつれて海軍建設部隊の規模も次第に拡大して行きます。陸軍が陸上戦闘の主体となった欧州の戦線では、陸軍の工兵隊が戦闘支援を行いましたが、海軍のニミッツ提督が反攻の指揮を執り、海兵隊が陸戦の主体となった太平洋の島々の戦線では、海軍建設部隊が陸軍工兵隊の任に当たる事になります。それは戦闘部隊が編成主体である海兵隊が、補給や医療部門等の戦闘支援部門を全て海軍に依存していた事にもよります。結果太平洋戦線では、上陸した海兵隊に続き海軍建設部隊が大量のブルドーザー等の重機を随伴して上陸し、まだ戦闘下の上陸地点において飛行場や橋、道路、燃料や食料、弾薬の貯蔵施設、病院、兵舎等の建設、設営を行いました。結局第二次大戦下では、総勢32万5千人以上の海軍建設部隊員が、6大陸及び300以上の島々において建設任務に従事しました。第二次大戦後、部隊は平時編成となり人員、規模も削減されますが、1949年から1953年の間の朝鮮戦争時の経験を経て、新たに水陸両用建設大隊(PHIBCBs)及び海軍機動基地建設大隊(NMCBs)が基幹部隊として再編成されます。更にベトナムでの経験を経て、海軍建設部隊は現在では米国海軍及び海兵隊と共に世界的に展開し、海軍施設の維持運営を行い、また旧ユーゴやイラク、アフガニスタン等紛争地域での軍事施設や民間公共施設(病院・学校等)の建設、大規模災害時の救援活動に従事しているそうです。カルフォルニア州西部のベンチュラ郡ポートヒューネム市には、合衆国海軍建設部隊センター(USNCBC=United States Naval Construction Battalion Center)が置かれています。ここには1,600エーカーを越す敷地に全長29マイルの道路と10マイルの鉄道線路、そして大規模な港湾設備を備えた一大海軍基地があり、海軍建設部隊博物館≠ェ設けられています。この博物館は、海軍建設部隊の歴史と成果の記録が集められ展示されており、一般の人々に海軍建設部隊への理解を深めてもらう為に1947年に設立されたそうです。各時代、各地域での部隊装備や兵器、軍服、部隊記章、部隊旗の他、種々の資料が展示されており、米国軍事力の底力を見せつけられる博物館とも言えます。因みに米国海軍建設大隊の公式のモットーはConstruimus.Batuimus.≠ニいうラテン語で、訳すと私達は造る、私達は戦う≠ニ言う意味になるそうです。これも頭文字はCB≠ナすね。日本海軍にも建設専門の海軍設営隊≠ェ存在していましたが、海軍の正規部隊編成と言っても人員の大部分が軍属主体で、また人力に頼っていた為、米海軍建設部隊に比べて能力的には大きく劣っていました。
※以上の内容は、海外サイトの英文説明を和訳サイトで強制翻訳したものを基にしていますので、部分的に誤っている可能性が多々あります・・・by.ATF(大汗)
【「決戦」・・・いや『血戦奇襲部隊』】
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06月12日(月)
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