ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File113】西部戦線異状なし・・・新高山登レ一二○八【遂に本編突入か?編】
兎に角も『西部戦線異状なし』の原作本を入手しなければ・・・早速近所の書店に出かけた・・・大方の予想に反して(オイオイ)・・・原作本はすんなり発見出来た!流石は定番名作小説である。場末の小さな本屋でも、ちゃんと陳列棚に並んでいるのである。購入し自宅に戻ると、その日から読み始めた。文庫本自体の厚さはソレ程ないので一気に読み終る事が出来た・・・しかし、ただ単に読むだけでは観戦記の執筆時に役には立たない。(;-_-)σ私ATFの64mbの頭脳では、小説の各章が一体映画のどのシーンに合致するのかなんて、いちいち記憶しておけるはずがないのだ。そこで仕方なく再度小説を読み返しながら、各エピソード毎に付箋(ポインティング)を貼り付け、それぞれに自分なりの仮タイトルを書き込んで行った・・・こうして後日映画版の各シーンのエピソードと比較して行こうと言うのである・・・結局付箋(ポインティング)を貼り付けながらの再読は丸三日にもおよび、最終的に原作本へ貼り付けた付箋(ポインティング)の数はは42枚にも達した。(^◇^;)σ【コレが証拠写真(ちょっとピンぼけ)だッ!】いや〜しかし流石に名作の誉れ高い『西部戦線異状なし』である・・・読み終わって(・・・結局都合五回も読み直すハメに・・・)改めて名作の凄さを実感させられた私ATFであった!
こうしてノリと勢いの条件が揃った私ATFは、遂に1930年版旧作DVDと1979年版リメイクDVDそして原作本の三者のストーリーを比較する・・・おっと忘れてた・・・1979年版リメイクビデオでカットされていたシーンも含めて・・・という、今更ながら考え直してみると、全く以ってトンデモなく無謀な作戦をおっ始めてしまったのであった・・・o(><;)o
【今更ながらのエーリッヒ・マリア・レマルク】
さて今更ながらだが、未だ『西部戦線異状なし』を観戦していない観戦武官諸士の為に、原作者エーリッヒ・マリア・レマルク(Erich Maria Remarque(本名/Maria Paul Remark)/1898/6/22〜1970/9/25)の経歴についておさらいさせていただく・・・( ̄▽ ̄)σレマルクは、1898年に独ウエストファーレンの地方都市オスナブリュック市に生まれた。実家は敬虔なカトリック信者で、父親の仕事は製本業。18歳の時にギムナジウム(寄宿制高等学校)の友人と共に第一次大戦に出征し、西部戦線へ配属されるも負傷・・・終戦まで病院で過ごし1918年に復員した。復員後はギムナジウムに復学。卒業後小学校教員や会社勤務を経て、ベルリンにてジャーナリストとなる。雑誌等で記事を執筆しながら、1929年に自らの従軍体験を基に戦場での体験を通じて戦争の悲惨・残酷さを生々しく記した『西部戦線異状なし(独語原題:Im Westen nichts Neues)』を発表・・・。当初はその余りに生々しい内容から、幾つも出版社に出版を拒否されたが、出版されるや瞬く間に25ケ国語に翻訳され350万部を超える一大ベストセラーとなった。その後執筆した「帰り行く道(1931)」は、ナチス台頭期下において厭・反戦的な内容の作品だった為、ナチス党から迫害を受け、1932年スイスへと亡命を余儀なくされた・・・結局『西部戦線異状なし』は、1933年ナチス政権樹立後に宣伝相ゲッベルス陣頭の下でベルリンのオペラハウス前で行なわれた焚書処分の対象となり、その後1938年ナチス・ドイツ政府はレマルクのドイツ国籍を剥奪した(一説によれば、レマルクはフランス系ユダヤ人の末裔だと言うデマも流されていたらしい)。1939年レマルクはアメリカへ再亡命。1941年に「汝の隣人を愛せ」を発表後、暫くはヒット作品に恵まれず不遇な生活を送っていたが、1946年これもまた200万部を超える大ベストセラーとなった「凱旋門」を発表し、世界的作家としての名声を拍した。その後も「命の火花(1952)」「愛する時と死する時(1954)」「黒いオベリスク、ある遅い青春の物語(1957)」等名作を発表した。(;; ̄ー ̄)σまたマレーネ・ディートリッヒやポーレット・ゴダード等有名女優たちとも浮名を流したプレイボーイとしても知られている。
【西部戦線異状なし・・・トリビアの泉】
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12月08日(木)
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