ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File106】マカロニ戦線異状アリ・・・珍説イタリア戦争映画史《傾向と対策B》
第一次世界大戦の1918年、ドイツにおいて映画製作会社・・・全映画共同組合(UFA:ウーファ)・・・が設立される。これは戦争遂行という国家的行事における映画の役割・・・宣伝媒体/プロパガンダ・・・を高く評価したドイツ帝国政府が、軍部主導の下、産業界や金融界の後援を受けて設立したモノで、大戦によって英仏の映画製作会社は、その活動が衰退したが、敗戦国にも関わらず、UFA社の製作したドイツ映画は、ヨーロッパでアバンギャルド(前衛的/古典的なものを否定し新しい芸術的表現を模索する)運動の盛り上がる中、世界中で評価され、ドイツを世界有数の映画大国に押し上げ、後にナチスの台頭と共にUFA社はナチスの宣伝機関と化す(ユダヤ系&左翼系文化人の粛清により映画界の逸材の多くが国外に流失する)・・・国家や政府、政党がプロパガンダの手段として映画(現在ではマスコミ)を利用した事は歴史上でも明確である。ナチス・ドイツや旧ソ漣に限らず日本、米国、英国・・・世界中の国家が戦意や敵愾心の昂揚や思想統一等の手段に映画を用いた。このような歴史の例に漏れず、イタリアの映画産業もムッソリーニ率いるファシスト政権と密接に関わって行く。ところがイタリアにおけるファシスト政権と映画界との関係は、ちょっと変っていた・・・イタリア映画界は、ファシスト政府のプロパガンダの手段として、一方的に利用された訳ではなく、むしろその逆で、イタリア映画界がファシスト政権を利用し、その発展に利用した・・・と言う事も出来るのである。1930年代になるとファシスト政権は自国の映画産業の建て直しの必要に迫られる。ハリウッド映画の購入による自国通貨(リラ)の国外流出を防ぎ、映画産業の復興による失業者対策という現実的な政策を掲げた事により、芸術の保護者を自認していたムッソリーニが「イタリア人の為の、イタリア人による、イタリア人の映画」を掲げた事による・・・1932年、ベネチアにおいてファシスト政権主導によって「国際総合芸術博覧会」が開催され、その一部門として映画コンクール(作品賞・監督賞・主演男優&女優賞)が行われた。これが今日世界三大映画祭のひとつとして高い権威を持つ「ベネチア国際映画祭」の起源となった。また1935年にはイタリア国内大手映画製作会社であるチネス社、ルクス社、そしてティタヌス社等が映画製作および配給を一手に引き受ける独占製作配給会社エニック社に統合され、また国立ローマ労働銀行等三大銀行に、映画産業用特別口座が開設され、資金援助が積極的に開始される。また映画に関する様々な国家の監督する機関(ニュース映画を製作して情報操作する教育映画連盟(LUCE)や映画製作者養成の為の国立実験映画センター等)が設立される。そして1936年にはファシスト政権の最大の功績である国内最大の国立撮影所チネチッタ(映画都市)の建設が始まり、1937年4月に完成。ローマ市南部郊外の約40万平方メートルの広大な敷地に撮影所、学校、研究所、編集室、現像所等映画に関する様々な施設を備え、文字通り映画の都≠ニ称するに相応しく、ムッソリーニ参列の下、壮大な落成式が行われ、以後ファシズムを謳歌する国策映画が次々に製作された・・・かと思われるが、それは全く逆・・・武蔵野美学長の長尾重武氏の著書「ローマ」によれば、ムッソリーニの失脚までにチネチッタ撮影所において製作された作品は合計279本・・・内120本が喜劇映画、142本が歌劇や歴史映画等で、直接的に戦争美化や賞賛、国威昂揚を謳った映画は、僅かに17本に過ぎなかったらしい。こうなるとチネチッタ撮影所がナチス・ドイツ政権下におけるUFA社撮影所と同様に、ファシスト政権下の国立施設としての役割を充分果たせたのかどうか、という疑問は沸いてくる。しかし「イタリア人の為の、イタリア人による、イタリア人の映画」を掲げたムッソリーニは、自国民に映画と言う娯楽を提供する事で国威発揚に繋がると考えていた様である・・・結局ナチス・ドイツの様にユダヤ系芸術家を弾圧する事も無く、後に反ファシズムを代表するネオ・レアリズモ映画で名を馳せる監督達・・・ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニーニ等を育てて行く・・・。

【戦中・戦後のイタリア映画界】
【1940年代】

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04月03日(土)
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