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ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File077】合衆国軍VSインディアン激闘史・・・多勢に無勢【中編Vol.2b】
「ナヴァホのロング・ウォーク」J・E・カールトン将軍に強制移住を命令されたナヴァホ族は、ベアボンチート酋長を中心に反抗するも、1864年降伏。6000名のナヴァホ族が約560km離れたニューメキシコの居留地へ強制移住。多くのナヴァホ族(女子供中心)が劣悪な環境下で死亡した。
1862年〜1872年
アパッチ族のゲリラ活動活発化。居留地への入居を拒否した誇り高き酋長たち(マンガス、コロラド、コーチーズ、ジェロニモ等)は、以後10年間に渡ってクルック将軍指揮下の部隊(騎兵隊)との激しい抗争を繰り広げるが、圧倒的物量の合衆国軍の前に敗退。
1863年
「奴隷解放宣言」ゲティスバーグで北軍圧勝。
「ショショーニの戦い」
ネバダ州でショショーニ族が白人入植者を襲い、その報復としてP・E・コナー大佐指揮の義勇兵が酋長ベア・ハンター以下200名以上のショショーニ族を虐殺。
1864年
「サンド・クリークの虐殺」11月29日コロラド高原サンド・クリークにおいて無抵抗のシャイアン族約200名が虐殺された。一時的な休戦(停戦交渉)が行われていた最中、J・シヴィントン大佐指揮のコロラド義勇第三騎兵隊700騎が、突然シャイアン族の集落を攻撃。(大佐は事件後退役し、軍法会議を逃れた/映画「ソルジャー・ブルー」のモデルとなった事件)。
1865年
「南北戦争終結」南軍最後の拠点リッチモンド陥落。南軍総司令官リー将軍が降伏し戦争終結。リンカーン大統領暗殺。合衆国全土においてアフリカ系奴隷解放。
「ビーチャー島の戦い」9月G・A・フォーサイス将軍率いるコロラド民兵部隊がインディアン大部隊の攻撃を受け孤立するも、九日間防戦しこれを撃退。
1866年
「レッド・クラウドの戦い」西部ダコタ族と合衆国軍が衝突。オグララ(スー)族の天才軍師レッド・クラウド≠ノ率いられたインディアン側が合衆国軍を圧倒。同年W・フェッターマン大佐率いる騎兵隊81騎が、スー族に襲撃され全滅。
「北パイユート・スネーク戦争」オレゴン州で酋長パウリナに率いられた北パイユート族が白人入植者を襲い、討伐に向かったG・クルック大佐の部隊と幾度も小戦闘を繰り広げた末、パウリナが戦死し降伏。
1867年
「ワゴンボックスの戦い」8月ワイオミングのフィルカーニー砦近郊で、森林伐採中の白人入植者と護衛部隊がラコタ・スー族の襲撃を受けるも全滅は免れる。
「ポーニー・フォークの焼き討ち」W・S・ハンコック将軍は、蜂起計画有りとしてカンザス州ポーニー・フォークのシャイアン・ラコタ族の集落を急襲するも、襲撃を察知したインディアンたちは事前に脱出。合衆国軍は集落に火を放った。
「メディスン・ロッジ・クリーク条約」南部平原諸部族と合衆国政府との間で、敵対関係の解消を目指す条約締結。
1868年
「ワシタ河畔の虐殺」カスター中佐に率いられた第七騎兵隊が、ブラック・ケトル率いる南シャイアン族のワシダ川沿いの集落を襲撃し女子供を虐殺。以降カスターはインディアンから「長髪の女殺し」と呼ばれる。
1870年
「ブラックフォート・ピエガンの虐殺」ユージン・M・ベイカー少佐指揮の部隊が、白人入植者を襲ったピエガン族の集落を急襲し、女子供ら173名を虐殺。以後「サミットスプリングの戦い(コロラド1869年)」「ソルト・クレーク・プレーリーの戦い(テキサス1871年)」「マクラレン・クリークの戦い(テキサス1872年)」と激しい戦いが続く。
1872年
「モドック戦争」北カルフォルニアで居留地への移住を拒否したモドック族がキントプーアシュとフッカー・ジムに率いられ合衆国軍に抵抗したが、鎮圧され多くが処刑された。
1874年
サウス・ダコタのグラックヒルズ(スー族居留地・バッファロー狩猟地)で金鉱脈が発見され、カスター中佐指揮の部隊による調査(1873年)の結果、ダコタ地域を金鉱地としても酪農業地域としても最適と評価した為、多くの白人が入植した。
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02月26日(水)
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