ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File071】祝・製作四○周年記念特別編発売・・・実録『大脱走≠ュぅらぁ〜』後編
吉良上野介に対し、予ねてより怨恨≠フ情を抱いていた浅野内匠頭が、江戸城内にて偶然出会った折、脇差で吉良上野介に斬り付け負傷させた。江戸城と言う政治権力の中枢、且つ最高権力者である徳川将軍家の居城において「刃傷(にんじょう)沙汰」を起した訳で、まあ今で言えば国会議事堂で国会議員同士が殺しあったってとこでしょうか・・・こんな事件が起こればどうなるか・・・世情へ及ぼす影響の大きさにビビッた幕閣は碌な取調や詮議もないまま、浅野内匠頭に即刻「切腹」の沙汰を下し、さらには浅野内匠頭本人だけの処分では済まず、赤穂藩浅野家自体も「御取潰」の処分が下され、多くの家臣(士分だけでも200名近く)が路頭に迷う事になりました。今の企業で言えば社長の不祥事で、会社の信用ががた落ち不渡り出して倒産・・・社員が路頭に迷ったってトコでしょうか・・・。まあ浅野内匠頭自身は、そこまで幕府の処分が重いとは思っていなかったかもしれません。自分が腹を斬れば済む程度の思慮だったのではないでしょうか・・・まあ後先考えずに突っ走った二代目若社長・・・ですかねぇ。当時の慣習では喧嘩両成敗≠ェ原則だったはずですが、浅野内匠頭の乱心による刃傷≠ニして事件は処理(実際は朝廷の使者の接待が充分に出来ず幕府の面目を潰したって事が理由だったようです)・・・浅野家側の一方的処分に終わってしまいます。一応吉良上野介は自主的に御役目を辞退し隠居して寄合(窓際族)に列し、吉良家は息子左兵衛義周が継ぎ、表向き事件は収拾します。浅野内匠頭は、死に臨んでも事の真相≠明かさなかった為、今になっても真相は不明な点が多い(なんと公式の記録が残っていない!)のですが、一般的には以下の真相が考えられています。
【事件の真相その@】
元禄十四年(1701)の年頭勅使御馳走役を命じられた浅野内頭匠が、高家(武家の名門の家系で様々な武家の儀式や作法を司る家柄)肝煎(筆頭)の吉良上野介より指導を受けるのだが、一説によると指導料として多額の袖の下を要求した吉良上野介に対し、浅野内匠頭がこれに応じなかった為、以後吉良上野介が浅野内匠頭に対し様々な嫌がらせをし、双方に遺恨が残っていたと言われている。そして元禄十四年(1701)3月14日午前、江戸城内松の廊下にて吉良上野介と浅野内匠頭がすれ違った折、吉良上野介より発せられた一言に逆上した浅野内匠頭が刃傷沙汰におよんだという説。これには異説があり実は浅野内匠頭の正妻に横恋慕した浅野家江戸家老が浅野内匠頭の失脚を狙って、わざと吉良上野介との関係を抉らせたというもの。数年前に放送された○HKの大河ドラマ『元禄繚○』では、この説が取り上げられていた。
【事件の真相そのA】
将に事実は小説よりも奇なり≠ナ、吉良家の領地(三河国吉良)における上野介の評価は多くの「忠臣蔵」モノで描かれた極悪人のイメージとは大きく異なり新田開拓や用水開発、治水事業や塩業発展など地域振興し貢献した名君として、領民には極めて良く慕われていた。また吉良上野介は、書道や歌道などに通じ、特に茶道には深い嗜みを持ち、当時の主要な文化人と深く交流していた。後世、歌舞伎や芝居、講談等で赤穂浪士関連の物語が多く扱われるようになって正義の忠臣(赤穂浪士)≠ノ対する悪政の権化(吉良上野介)≠ニして強調された観が大きい。近年では事件の原因として播州(播磨国)赤穂(浅野)藩と三州(三河国)吉良領における共通の特産物塩≠フ専売を巡る対立にあったとも言われている。元々内陸部に所領があった浅野家では製塩は行われていなかったのだが、海沿いの赤穂藩に転封になり財政逼迫に陥った折、吉良家によって製塩の技術が伝えられ、後には藩の重要な特産物となった。しかし江戸市場での塩価格の相場を巡って吉良家側といざこざが起こり、後に吉良上野介が浅野内匠頭に対し色々と嫌がらせをした、と言われている説もある。
【討入りまでの経過】
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12月22日(日)
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