ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■ハイバイ20周年『て』
ハイバイ20周年『て』@本多劇場
毎回打ちのめされる傑作 芝居納めでした、よいお年を〜
[image or embed]— kai (@flower-lens.bsky.social) Dec 23, 2024 at 0:16
20周年おめでとうございます。ロビーには歴代作品のポスターとハイバイドア現物が展示され、撮影スポットになっていました。「あなたもハイバイの世界の住人になれる!」的な。それは…つらいな……(微笑)。
『その族の名は「家族」』も加えると6演目か? 『て』を初めて観たのは4演目、10周年のとき。その後の5演も観ているが、感想が書けなくなってしまった。岩井秀人の作品はついつい自分ごととして観てしまい、芯に当たるとダメージが大きい。父が亡くなったあとに観たときには特に喰らった。そして、『夫婦』、『世界は一人』と観てきて、同じことをずっと考え続けている。岩井さんが今作を演出するのは最後とのこと。前川知大がハイバイ作品を評していった「供養」として、そのことを取り留めなく書いておくことにする。
岩井さんに「あの父親」の姿を見たのは『ワレワレのモロモロ 東京編』。役者を理不尽に追い詰め、その人格すら否定する演出家の姿は、ある作家のある作品を想起させた。復讐のように家族、特に父親のことを書き続けた彼が、あるときその父親をなぞるような行動に出る。やってしまった事実だけを面白おかしく書いたそのエッセイに、父親の話題は出てこない。しかし、彼の作品をずっと読んできたひとは、嫌な予感がした筈だ。その後彼に起こった(いや、彼自身が起こした)ことを知ったとき、驚きはしなかった。いずれこうなることが判っていた気すらした。あれ程憎んだ父親に似てきている。姿形のことではなく、生き方が。
『ワレワレ〜』で岩井さんが演じた演出家は、岩井さんではない。それでも嬉々として役者をいたぶる(そう見える)姿に、岩井さんの「あの父親」が透けて見えた。その自覚を持ちあの役を演じているであろうところに恐怖を抱いたし、自覚を持ってあの役を演じ、観客を笑わせる岩井さんに畏怖の念を抱いた。
そして今回。「あの父親」は、ふたりの役者により演じられる。前半は後藤剛範、後半は岩井さん。父親を演じていた後藤さんが後半「人間のつくりが違う」長女の夫になり、長女の夫を演じていた岩井さんが後半父親にスイッチする。暴力をふるう、まだちいさかった子どもたちの目に映る父親を演じる、筋骨隆々の後藤さん。大人になった子どもたちの前で弱々しい姿を晒す(ふりをする)、くたびれた(失礼)岩井さん。
最後という演出にこの手札があったか。岩井さんが父親を演じたのは初めてではないか……。自分の姿に当時の父親を見出せる年齢になった、ということもあるのかも知れない。白髪が増え、目の下の肌がたるみ、しかしそれでも大人になった子どもたちを緊張させる父親。多分今回も、自覚をもって演じているのだろう。やはり怖いし、やはり凄い。
4人の子どもたちと、その両親のことを考える。あの夫婦仲で、何故ふたりは4人もの子どもをつくったのだろう? ふたつのことに思い至る。ひとつ目は、強姦だったこと。母、長女、そして一瞬正気に戻った祖母の三世代が「夫(父親、義理の息子)の怖さ」を語り合うシーン。笑いが起こっていた客席が、ある時点から静まり返る。この喩えは非常に的を射ているのだと気づいたかのように。女性たちが怯える男性性を説明するのに、絶妙過ぎる程の喩え。
ふたつ目は、母親が自分の味方をひとりでも多くつくるためだったこと。結果論だが、そうしてあの家に父親の味方をする人間はいなくなった。どちらにしても、子どもはその出自に後ろめたさを持つ必要はない。望むも望まないも、生まれてきた子どもがその存在を否定される謂れはひとつもない。そして『夫婦』を観ればわかる通り、父親を看取ったのはこの家族だったのだ。簡単には片付けられない、断ち切ることの出来ないしがらみ。
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12月22日(日)
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