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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■第7世代実験室『たかが世界の終わり』
第7世代実験室『たかが世界の終わり』@テアトル新宿
『俳優 藤原季節 特集上映』から『たかが世界の終わり』、いやあスクリーンで観られるとは。手持ちカメラがワンカットで迫るのは、演者5人が繰り広げる台詞の殴り合い。観る側が舞台上に放り込まれたようなもんで画面酔いしつつも目が離せないという悶絶かつ至福の110分。 pic.twitter.com/gxEUTnLFo9― kai ☁ (@flower_lens) September 17, 2023
本来そこにいる筈のない、いてはならない存在であるカメラが捉える。誰にも見られていない筈の家族の表情を。母親がやさしく子どもの丈「を両手で包む、その姿を。
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余命宣告を受けた青年(藤原季節)が帰郷する。自分が間もなく死を迎えることを家族に伝えるため帰ってきた彼は、そのことをいいだせないまま家族から歓迎され、そして拒絶される。妹(配信当時は佐藤蛍、現在は佐藤ケイ)ははしゃぎ、弟(内田健司)は敵意を隠そうともせず、弟の妻(周本絵梨香)の気遣いは空回りし続ける。母親(銀粉蝶)は彼を突き放し、そして解き放つ。父親は不在のまま。おそらく過去にも未来にも。
食卓で家族が互いを抉り合ういたたまれなさがテネシー・ウィリアムズの作品を連想させ、アメリカ的な印象を受けた。土地に縛られそこで一生を終える者と、その土地を捨てた者。残された者は出て行った者に羨望と憎しみを抱き、同時に出て行けない自分に自責と諦観を覚える。実際は1990年代のフランスの話。物理的な距離感は凝縮される。走れど走れど故郷から遠ざからないアメリカの土地の広大さは、欧州の比ではない。その代わり、では、どうして彼は出て行った/出て行けたのか、そして家族は出て行かない/出て行けなかったのか? という心理的な面に興味が移る。
長男はつらいよという話として観ていたところもあった。青年が家族、そして子どもを持たないことについて、弟とその妻が遠回しに、あるいは直截的に、手を替え品を替え話題にする。男の子がいない、ということも。家はどうする? 年老いた親をどうする? 弟は青年を責める。お前が出て行ったから。その後、妹の直接的なひとことで、青年が家族から孤立している理由のひとつが明かされる。
印象的だったのは、その箇所がさらりと流されたことだ。そして以降、その単語は出てこない。演出上の狙いなのかは判りかねたが、聴き逃したひともいたのではないだろうか。青年が故郷を出て行き家族を持たない原因をそのひとつに集約しないという意志が感じられた。家族間の問題は、そんな簡単に結論づけられるものではないのだ。
食卓でのダイアローグはやがてモノローグへと移行する。それに伴い、空間そのものも変容していく。具象のテーブル、椅子、調度品に白く大きなシーツがかけられ、その上を青年が歩く。弟が追いかける。投げられた膨大な量の言葉は宙に舞い、着地の瞬間を待っている。演劇でしか表現しようのない、美しい光景をカメラは見事に捉える。故郷の光景も、家族とのやりとりも、やがてくる死も思い出になる。青年は過去も未来も、必然のものとして待っていたかのような表情で迎え入れる。家族は思い出のなかへと遠ざかっていく。食卓には、家には死が横たわっている。青年が迎える死、そこからさほど間を空けず訪れるであろう母親の死、やがて消えてなくなるであろう家。
映画化され話題になったジャン=リュック・ラガルスの戯曲(原訳『まさに世界の終わり』)を、内田健司の演出、武井俊幸の撮影で。コロナ下の2020年10月に舞台作品として制作され、一回限りの無観客上演を手持ちカメラ一台でワンカット撮影、配信した作品。本編はノー編集だろうか、数箇所消音されたところがあったが、これはノイズを消したか、台詞の詰まりや躓きを後で上書きしたか。開演したら停まらない(停められない)舞台作品の臨場感と緊張感、ここぞというシーンがキマる映像作品のアングルと没入感が同時に味わえるという、稀有で貴重な出来栄えだった。演者の力量、スタッフワークの充実、ハコの磁力。全てが必然の奇跡のように集まった。
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09月17日(日)
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