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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『アネット』
『アネット』@角川シネマ有楽町 スクリーン1
闇から生まれて闇に還る、闇で別れて闇で再会する。そのとき生きているか、死んでいるか。映画はどちらも往来できる。大好きなカラックスと大好きなスパークスの出会いは正に映画だった。凄いものを観た……胸がいっぱいです #アネット pic.twitter.com/5RJfABGbCZ― kai (@flower_lens) April 2, 2022
“So May We Start”と唄い乍ら夜の街に繰り出した一群は、“Bon Voyage!”と声を掛け合い、それぞれの役目を果たすため別れていく。ここはアメリカ、ロサンゼルス。「やめろ」というパトカーからの警告を背に、ウィッグと衣装を受け取ったアダム・ドライバーはヘンリーの人生を、車に乗り込んだマリオン・コティヤールはアンの人生を生きる。さあ、息を止める時間だ。観客は死への道程を覗き込む。
『ホーリー・モーターズ』以来、8年ぶりのレオス・カラックスの新作は、生まれて生きて死んでいった、生まれて生きて死へと向かう全ての人々に贈られる。そして何より、カラックスの娘ナースチャに贈られる。
スパークスの原案による物語と音楽。カラックス初のミュージカル。常に音楽とともにある映画を撮り続けてきたカラックスのこと、不安など微塵もなかったが、舞台がアメリカだということだけが不思議だった。しかし一目(聴)瞭然、生き馬の目を抜くショウビズの世界と、正義を信条とする“群衆”を描くのにアメリカはうってつけだ。スーパーボウル(劇中ではハイパーボウルとなっている)が象徴的。アメリカ最大のスポーツイヴェントのハーフタイムには、巨額の金がかかり、人々の注目が集まる。罪も赦しも、人生の全てがエンタメになる。
アメリカから冷遇されているスパークスと、映画界の異端児カラックス。両者の出会いは、普遍の傑作を生み出した。だから彼らは、いつでもどこでも愛される。
スタンダップ・コメディアンは舞台袖でバスローブのフードを被り、観客と闘うかのようになシャドウボクシング。オペラ歌手は楽屋で顔にシートマスクを置き、死体のようなポーズでストレッチ。彼らには、観客に対峙するための仮面が必要だ。観客は常に時代の空気に敏感で、気まぐれで傲慢、残酷な存在。仮面と強靱な身体をもって観客を挑発し笑わせる“道化”は、観客=“王”の寵愛を失うと同時に破滅へと向かう。美しい容姿と磨き上げた声でもって、日々観客の生贄となるべく死を演じるオペラ歌手は、死してなお娘の声を盗む。観客は彼らを前に笑い、死に、涙を流し、救われる。
描かれる世界は、カラックスの個人史と切り離せないものになっている。観客が知っていることは彼の人生のほんの一部でしかないが、それでも彼の映画には虚構と現実が入り交じっていることを意識せずにはいられない。それは映画の登場人物たちにも侵食していく。丸窓から“悪い父親”を目撃するアネットに『ホーリー・モーターズ』のナースチャ・ゴルベワ・カラックスを投影する。赤を帯びたショートヘアから、暗い色のロングヘアの亡霊へと変貌するアンにカテリーナ・ゴルベワを。ヘンリーの贅肉のない裸体と緑の衣装にドニ・ラヴァンを。アンのショートカットの変遷とオレンジがかった黄色の衣装にミレイユ・ペリエを、ジュリエット・ビノシュを。ヘンリーを演じる役者はアダムという名前を持ち、マリオン演じるアンは幾度も禁断の果実である林檎を口にする。マリオンのアンは出産のとき「Shit」ではなく母語の「Merde」と口走る。スパークスのふたりはヘンリーとアンのストーリーに突然現れ、忽然と消える。実人生と演技は地続き。映画はどの空間とも時間とも往来出来る。リフレインを多用するスパークスの曲は、あらゆる人生をあっけらかんと唄い上げる。悪夢のように、子守唄のように。
溢れる音楽、規則性のあるキーカラー、(特にアダムの)物語る身体。CGではなく実体があるパペット/マリオネット。ベイビー・アネットは人形から生身の人間になる。父に、母に操られることのない自分を取り戻し去っていく。人形から人間になっても、刻まれた額の傷は消えない。映画のなかで変態する彼女は、虚構を現実と繋ぐ。映画は人生だ。作り手だけでなく、観客にとっても。こうして映画の中の登場人物と同様、観客には消えない傷が刻まれる。
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04月02日(土)
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