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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『ねじまき鳥クロニクル』、D遵ッ D遵ッ MOUSE “Nulife”Release Tour
『ねじまき鳥クロニクル』@東京芸術劇場 プレイハウス

『ねじまき鳥クロニクル』深夜残業続きの当時の職場で何故かこの本がまわし読みされていたことをまざまざと思い出した……近代〜現代社会の暗部と劇場の闇は繋がっている。プレイハウスの奥行きが溟い穴に見える。語り、身体表現ともに吹越さんが凄まじいです。負荷も相当大きい。千秋楽迄ご無事で! pic.twitter.com/PlDqY042kM— kai (@flower_lens) February 15, 2020
真夜中、何をするでもなく(原稿待ちですわ)他人と長時間一緒にいる空気。夜食を買い出しに行って、見上げたビルにひとつだけ明かりがついているフロア。車も人通りも殆どない夜道を歩くとき、肌にあたる冷たい空気。決して嫌ではないのだ。むしろそれが楽しかったりもして。ただ、頭上に蓋があるような感じがしていた。そんな感覚がフラッシュバックする。

インバル・ピントの描く、村上春樹の世界へようこそ。ピントの作品を観るのは『100万回生きたねこ』以来。このときはアブシャロム・ポラックが演出パートナーでした。今回のパートナーはアミール・クリガーと藤田貴大。ピントは演出、振付、美術を、クリガーと藤田さんは脚本と演出(クリガーはドラマターグも)を手掛ける。音楽と演奏は大友良英。

村上作品の熱心な読者ではないけれど、舞台化されたものを観るのはかなり好きなのです。『ねじまき鳥クロニクル』を最初に舞台で観たのは1993年、ニナガワカンパニー。オムニバス上演の一編として、ピーマンと牛肉の炒めもののシーンが演じられました。今回そこはなかったな。チョイスされていたのはトイレットペーパーとティッシュペーパーのくだり。このどちらかがあることで、トオルとクミコのわかりあえなさが伝わる。あの長編を三時間にまとめる場合、どの部分を選べば舞台が成り立つかを考える構成もだいじになる。藤田貴大の苦心と工夫が窺える。

台詞劇と歌による語り、そしてダンス。そして機動力あふれる装置。ミュージシャンは大友さんとイトケン、江川良子。たった三人でいくつもの楽器を使い分け、楽曲と劇伴を演奏する。インプロ的な部分も多い。舞台上の情報量がとても多いので、集中力がいる。歌への切り替えには疑問符がついた(台詞と身体表現でもはや不足はないと思われた)が、シーンを単独で考えると、成河と渡辺大知の歌はやはり心に響くものがあった。成河さんはミュージカルで培われた「物語る歌」、渡辺さんはバンドで唄ってきたからこその「投げかける歌」。この対比は楽しめた。ふたりがまぐわうようなダンスも滑らかで美しい。身長差のあるふたりが絡み合うことで、二体いる岡田トオルという人物が溶けてひとつに混ざり合い、現実世界と異次元(といっていいのだろうか)を往復するモノとなっていくさまが視覚化された。大貫勇輔と徳永えりによって演じられる、綿谷ノボルと加納クレタの性的かつ暴力的なシーンも素晴らしい。大貫さんのダンスをまた観られた、といううれしさがあった分、もっと観ていたくもあったが。『喜びの歌』で知ったんだけど、気になる表現者です。

目の前にいる人物がぬらぬらと闇に絡めとられていく様子が、ダンスによって表現される。不可解なできごとの象徴のようでもある。圧巻は吹越満による間宮中尉の告白のシーン。戦時中、人間の嗜虐性が露になる瞬間を淡々と語る。アンサンブルのダンサーたちに抱え上げられ、重力に逆らった体勢を続け、自身の体重を自身で支え乍ら語る。頭に血が降り(昇り?)額がみるみる赤くなっていく。演者の身体にかかっている負荷が、間宮中尉の受けた苦痛となり表現される。しかし声のトーンは全く変わらない。語り手の間宮中尉からすれば、この出来事は過去のことだからだ。声のトーンと語られる内容のギャップ、視界を限定するほのかな灯り。見えない暗闇と歴史の暗部が繋がる瞬間。直視するしかない。息を殺して見入る。というか観ている、ということを忘れるくらい、目の前で起こっていることに没頭していた。間宮が退出し、ふと我に返る。吹越さん、すげーーーーーーー長ゼリじゃねえの。怖い!!!!! すごいな!!!!!


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02月15日(土)
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