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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『シークレット・サンシャイン』
『シークレット・サンシャイン』@早稲田松竹

隙をみて行ってきた念願のスクリーン鑑賞 大好きなやーつ pic.twitter.com/3Yy1tASl0T― kai (@flower_lens) July 28, 2019
フジの配信とアプリにへばりつく合間を縫って行ってきました。お昼にチャイカにも行けて満足。夏期は冷製ボルシチがあるよ!

『バーニング』公開に伴いイ・チャンドン監督作品の上映機会が増えています。最初はスクリーンで、とずっと待っていた作品を遂に観ることが出来ました。原題は『밀양(密陽:ミリャン)』、英題は『Secret Sunshine』。2007年作品。観る前からこれ絶対好きなやつ、という予感があったけどそれを鮮やかに裏切り……というと言葉が悪いな、予想とは違う着地点で、なおかつ期待を大きく上まわるものだった。ひとは簡単には救われない。しかし、時間をかけて癒される。原題になっている「密陽」は韓国釜山近くの地方都市名。開巻まもなく、その地名にまつわる印象的な会話がある。物語が進むにつれその意味が少しずつ大きくなり、ラストシーンで輝きを放つ。登場人物の誰も気付いていないひだまりの在処、それを静かに示す幕切れが深い感動を誘う。

ソウルから密陽へ移り住んだ、夫を亡くした女とその息子。女は少しずつ嘘をつく。他人にも、自分にも。他人についた嘘が悲劇を招き、自分につく嘘は自身を苦しめる。隣人にすすめられた聖書をきっかけに、彼女は教会へ通いはじめる。彼女は信仰によって変わったか? 信仰は彼女を救うことが出来るか?

刑務所での会話は痛烈な皮肉だ。「見ているだけ」の神にどこ迄自分を委ねられるか、数々の苦難を、神からの試練だといつ迄耐えられるか。神は罪を許してくれる、でも神が許しても私は許さない、許せない。教会の仲間は許せない彼女を悪と罵ることもなく、疎外することもなく、彼女のために徹夜の祈祷会を開くような善良なひとたちだ。ただただ、彼女のことを救いたいと思っている。自分が許せなくても周囲が許せと迫る圧力は、それが善意からのものであっても辛いものだ。彼女自身も許したいと思っているのだ。というより、憎むことにうんざりしている。犯人だけでなく犯人の娘に迄その影響が及ぶこと、自分がついた嘘、自分についている嘘(これは亡夫の不貞を頑に信じないことも含まれる)、そういったこと。彼女を生きながらえさせるのは宗教ではなく、おいしいとも思っていない食事であったり、近所の住人とのちょっとしたおしゃべりだったり、何かと理由をつけては自分にかまってくる男のふるまいだったりする。伝道はその活動内容よりも、外に出て他者と話すこと自体の意味が大きい。

彼女と犯人の娘には共通点がある。父親という存在に脅かされている。彼女は父から逃れてきたが、心理的にはその影響下にある。犯人の娘は、自分の父親が何をしたか知らない者はいない町を出て行くことも出来ない。近所の住人は皆顔見知りで、家の鍵をかけずに外出出来るようなちいさな町だ。二度目の美容院のシーンが強い印象を残す。たどたどしい会話、鏡を通して見るお互いの顔。彼女はあの場を立ち去ったのは、娘にではなく神に怒りを感じたからだろう。そして、そのことがきっかけで、以前のやりとりで気まずくなった(その気まずさが生まれたのは一度目の美容院での出来事だった)近所の住人と笑い合うことが出来るようになる。彼女は聖書の教えを通し、密陽に住むひとびととの交流を通じて、少しずつ光に顔を向けていく。彼女が集会に仕掛けるいたずらのパンチが効いてる。笑った。こういうちょっとしたユーモアの積み重ねで、ひとはなんとか生きていける。

極端な話、信仰は趣味の一環でよいと思っている。他者と共有するものでもない。神という存在はいつでも自分の傍にいるが、ただいるだけだ。教義は自分の生きる道を照らす。しかしこの道を選べと強制するものではない。近年は許そうとする当事者に、許すな憎めと周囲が圧力をかけてくるケースも増えている。自分がどうしたいかを見失わないためにも、自分だけの信仰=信念は必要だ。信仰は一種のアンガーマネジメントだと考える。


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07月28日(日)
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