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by kai
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■『葛城事件』
『葛城事件』@新宿バルト9 シアター3
舞台の感想はこちら。しかしこれ、作品というより赤堀雅秋が書くものについて、の感想なんですよね。というのも赤堀さんの作品には大きく分けてふたつの路線があり、「実際にあった事件をもとに、その凄惨な現場を間近で見てきたかのような筆致で描く」ものと、「ひとびとの悲しく滑稽な営みを愛情のこもった視線で見つめ、落語や似非歌舞伎の形を借りて描く」ものがあるのだ。どちらかだけを観て拒否反応を示したひとをこれ迄少なからず知っているので、両方観てくれるといいな、一作だけでやめないでほしいな……という思いがあった。そのふたつが見事に融合したのが、今年2月に発表された『同じ夢』(一回目、二回目)だと思っている。
『葛城事件』は、そのふたつの路線で言えば前者にあたる。舞台版はその色が強かったように思うが、今回映画を観て後者の要素も多いことに気付いた。舞台版の次男の心の閉じようは、演じた新井浩文の強さもあって揺るぎないものに感じた。バイオレンスシーンや、長いレイプシーン(映画にはなかった)の迷いのなさが強烈に印象に残っている。思うのは被害者、その遺族のこと。この人間にどうやって罪悪の意味を理解させることが出来るのだろうか? 対して若葉竜也が演じた映画版の次男は、彼の顔立ちの幼なさもあってか「たられば」を考えてしまう。あのとき父親が不審火のことを問いただしていたら? あのとき母親が「いってらっしゃい」と言わなければ? それだけに、ことが起こってしまうときの歯がゆさが大きい。観客だからあたりまえなのだが、ただ見ていることしか出来ないことがもどかしい、悔しい。そして思ったのは加害者家族のこと。どうしてこんなことになってしまったのだろう?
答えは提示されているようにも見える。しかし、どう対処すればいいのかは誰にも判らない。いつ、誰が、何を、どうすればよかったのか。くすぶり続けてる火種の在り処には気付いているが、その消し方が判らない。「あんな父親では」「あんな母親では」。そんなことが言えるひとは相当おめでたい。反面教師という言葉もあるとおり、「そんな両親」のもとに育った人物を「評価」など出来はしない。父親の理想と傲慢さ、母親の弱さと狡さ。ある意味母親にそっくりな長男、ある意味父親にそっくりな次男。私は彼らに、おまえのここがダメなんだと断言出来ない。
舞台版は、目の前で起こっていることから逃げ出すことの出来ない閉塞感がよさでもあった。映画版は外気にふれられると言えばいいだろうか、怖い、いやだ、ムカムカする、という感情から一歩ひいてその光景を見ることが出来る。庭に出ればみかんの木があり、ふわりとした果実の香りも感じられそうだ。家出した妻とこどもたちが食事をするアパートには、薄くではあるが外の光が入る。そのことでひと息つける。父親があれほどこだわった家を具体的に見られるところも映画のよさだ。立地もわかる。周囲の街の空気や、そこに住むひとびとの光景も。ああ、あの家族はこんな街に住んでいたのだ。映画も観てよかった。そして映画といえば編集で、前後の省略と寸止めの後略が素晴らしかった。赤堀さん二本目でこうとはすごいな。いいスタッフと出会えているのだろう、これからも楽しみだ。
舞台であれ程心の冷え切った次男を演じた新井くんは映画では長男を演じていた。これがまたよかった。役をつきはなして見て、演じることの出来る役者。三浦友和にときどき赤堀さん(舞台版で父親を演じた)が乗り移ったように見えて瞬きをする。南果歩の声が発する空虚な言葉の恐ろしさ。そして次男の若葉くんの迫力。田中麗奈も難しい役をしっかり見せてくれた。
はっとさせられたのは、赤堀作品によく出てくるコンビニめし。最後の最後、父親の食べる様子を見てコンビニめしは優しいな、と思った。どんな状況、どんな環境にいるひとだろうが迎え入れてくれる。これは初めて思ったことだった。母子が最後の晩餐について話し乍ら食べていたナポリタンも、シーンの途中から幸せな食卓に見えてくる。そういうこともあるのだ。そして、そこを見逃さない赤堀雅秋という作家が好きなのだ、と思った。
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07月04日(月)
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