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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■1996〜1999年の蜷川幸雄
※画像はクリックすると拡大します。元画像はtumblrにおいてあります。大きな画面でまとめて見たい方はこちらでどうぞ。
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■1995
一本も観ていない。
■1996
0118『身毒丸』@シアターコクーン
オブジェとしての役者、“特権的肉体”を持つ役者。そこへ真っ向からぶつかる装置としての美術。寺山修司と唐十郎を結びつけると? という蜷川さんのひとつの解釈にも感じた。バツの悪さとともに、ニヤニヤできる楽しさも。グラインダーの火花が瞼に焼きつく。当時フェミ男なんて呼ばれていた武田真治の危うさもよかった。
1024(プレヴュー)、1027『零れる果実』@シアターコクーン
鈴江俊郎の戯曲を佐藤信と演出合戦。「俺のは意味のない拡大って言われるな」。出演者は比べられるプレッシャーがあり大変だろうが、観客としては面白い企画。不在の人物のために集まる、不在の人物について語りあう、というストーリーに惹きつけられる。客席をも侵食するような舞台空間、ステージを埋め尽くす家財道具。当人はいないのに、物質に溢れる部屋の愛しさ、寂しさ。
作者は違うがその後のTHE SHAMPOO HAT『アメリカ』にもそれを感じ、不在というと条件反射的にハァハァいうようになる。
1122『1996・待つ』@ベニサン・ピット
笑いの要素がグッと減る。地下鉄サリン事件を思わせるスケッチもあり、「現在」を色濃く映し出していた。何を材料にしても現在を見せる、今を生きるしかない演劇。刹那的なことかもしれないけど悲しくはない。
■1997
一本も観ていない。
■1998
0613『1998・待つ』@ベニサン・ピット
結構メンバーの入れ替えがあった後だったが、集団としての力が落ちない。役者みんなが個性的、集団から光を放つ。毎回違う、新しい魅力を発見出来る。
煖エ洋を発見したという記憶が強烈に残っている。「長距離走者の孤独」と「罪と罰」のパートに出ていた。今でも憶えている、「あの役者は誰だ?」と終演後あわてて配役表を見た。え、この役も、この役も同じひとだったの? と驚く。それ程振り幅の大きい役を演じていた。東京オレンジにいた高橋洋と同一人物だったとも気付かなかった。東京オレンジ、観ていたのに!
鈴木豊、新川將人も全編で大暴れ。大石さんは受けにまわったベテランという風情だったが、要所要所をおさえていて流石という感じ。鈴木真理のブランチも素敵な狂気。
メモ書き:ブリキ箱〜は『真情あふるる軽薄さ』、劇場客席〜は『タンゴ・冬の終わりに』、食堂の厨房は『KITCHEN』からのモチーフ。『長距離走者の孤独』『罪と罰』『欲望という名の電車』。
■1999
0620『血の婚礼』@ベニサン・ピット
トランシーバー少年を演じる洋さんが観られたこと、初演が上演されたベニサン・ピットで観られたこと。いちばん好きな清水邦夫×蜷川作品。うーん、やっぱり死ぬときに思い出したい。
1120『パンドラの鐘』@シアターコクーン
ポイントとなるオズ役を洋さんが演じた。陰を持つ繊細な考古学助手。見比べる楽しさと、抜擢され成長していく役者を目の当たりに出来る嬉しさと。野田秀樹演出版で入江雅人が演じたオズも魅力的だった。抽象の野田、具象の蜷川と、演出バトルも満喫。どういうストーリーか、としっかり事実を見据えたのが蜷川版だとすると、夢のような世界のなかにも現実は存在すると示されたのが野田版と言おうか……演出のみを手掛ける者と、作・演出を兼ねる者の、プロセスの相違――読み込んで作る視覚と、書き乍ら頭に浮かんでいるであろう視覚、について思うことも多かった。書き手ではないからこそ、徹底的に戯曲を読み込む。その執念。再演されないことが惜しい気もする。そして蜷川版を再び観ることは出来なくなってしまった。
06月17日(金)
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