ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■1988、1992〜1994年の蜷川幸雄
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―ご自分の境地を、後の人に継いでほしいというか、どのくらい継げるだろう、でもどのくらい取りこぼすだろう、みたいなことって考えておられますか?
蜷川:継いでほしいとは思っていないです。ただ、こういう時代をこういうふうに生きた奴らがいたっていうことを分かってくれるといいなあとは思います。死に物狂いでものを作って、年老いていったジジイたちがいた、その空気だけは伝わらないかなあと思ってるんですけれど。
(『蜷川幸雄の仕事』より)
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webで日記を書き始めてから15年程になる。その間蜷川さんの作品の感想も随分書いた。ほぼ欠かさず書いていたのではないだろうか。それ以前のものも当日パンフレットやメモが残っている。すっかり忘れていたと思っていたことも、それらを見ると、途端に舞台の光景、台詞のトーンが甦る。
再演も多かった。そのおかげで「間に合った」ものも多い。劇場があれば、蜷川さんの作品が観られる。劇場が変われば、姿を変えたものが観られる。そう思えた。心残りは『近松心中物語』を観られなかったこと。何度も再演されていたのに、自分のスケジュールや懐事情とタイミングが合わずここ迄きていた。来年頭にようやく、と思っていた。
舞台の記憶を引き出すためのツールとして置いていく。あくまでもツールなので、当日パンフレットはスキャンではなくスナップをアップする。本音を言えば、どなたかこういった当パン含めたものをまとめてくれればいいなあと思っている。河出書房新社が1969〜1988、1969〜2001の『Note』を出しているが、全てまとめたものがいずれ出るのではないかと期待している。
「記憶はなくならないの、引き出せないだけさ」。蜷川作品からの台詞ではないが、今、強い実感として響く。
※画像はクリックすると拡大します。元画像はtumblrにおいてあります。大きな画面でまとめて見たい方はこちらでどうぞ。
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■1988
1231『ハムレット』@スパイラルホール(映像)
NHK教育テレビでオンエアされたもの。記憶が間違っていなければ、生まれて初めて観た蜷川作品。家族が紅白歌合戦を観ているなかひとり別部屋で観ていた。何がきっかけでこれを観ようと思ったかは思い出せないが、「蜷川幸雄」が舞台作品等滅多に観ることが出来ない九州の片田舎に迄名が知れ渡っている、数少ない演出家だったことは確かだ。和装の役者が雛壇で演じるシェイクスピア。強烈だった。今思うとホレイシオを演じた松重豊をこのとき観ていたのだ。
■1992
0126『1992・待つ』@ベニサン・ピット
面白いやつ程出番が多い(?)短編オムニバス。転換を迅速に行うためか、小道具類が天井から吊るされている。大石継太が大車輪の活躍。「あっ、また(あいつだ)…!」という声が客席から漏れる程。松田かほりの可憐さと達者な演技も印象に残る。
初めて劇場へ足を運んで観た蜷川作品は、彼の代名詞でもあった大劇場のスペクタクルではなく、ニナガワカンパニー(当時はザ・ニナガワ・カンパニー)のホームでの公演。代名詞と言ってもそれは自分がそう思っていただけで、小劇場も蜷川さんの一面だった…いや、これこそが原点だったわけだ。意欲的で実験的、蜷川さんのパンクな気質をこの最初の観劇で浴びたことは、その後の自分の演劇嗜好を決定付けたと言っていい。所謂舞台がない、というかフリースペースでの演劇。敷地のあちこちに置かれたテレビモニターの画面、それらに一斉に光が灯ったときのインパクト。
ベニサン・ピットもこれが初体験。染色工場跡(もとはボイラー室だった)という異空間、暗転がまるっきりの暗闇になるところも魅力。すっかりこの劇場の虜になる。
『待つ』のときではないけど、1992年当時の写真が出てきたので張っておく。
1128『三人姉妹』@銀座セゾン劇場
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06月16日(木)
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