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by kai
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■『尺には尺を』
『尺には尺を』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

シェイクスピア作品のなかでも「問題劇」と分類されているものだそうで、それが何故なのか非常によくわかるというか……まー差別表現がすごい。それが差別と思われていないのがすごい(笑)。そういう時代だったと言われればそうですが、当時はそうしなければ命が危ないとか、おおっぴらにしておかなければ生きていけない等の切迫した根拠もあったわけです。それらが時代の経過とともに…例えば商業、工業の発展、医療の進歩に伴い、新しい道徳観や倫理観が生まれる。そうするとまた新たな問題が生まれ、ある種の抜け道として秘めごとが増える。ひとの営みはいたちごっこでもあります。

書かれている台詞を変えずに、台詞にない部分に現代性=普遍性を見出す。400年前の戯曲を、演出家、出演者、スタッフが総力を挙げ、分析し、表現する。2016年現在はこんな解釈で上演された。これも過程だ。また400年後、この作品はどんなふうに上演されるだろう? 自分がそれを目にすることは出来ないけれど、そんな未来が楽しみにすらなるような仕上がりでした。シェイクスピア作品は、そんなふうに上演され続けていく。これってすごいことじゃないか?

台詞にないシーン。自分に災いをもたらしたとされる命に、愛おしさ溢れる表情で頬を寄せる男。財産に、地位に左右されない女たち。罰として与えられた結婚を、幸せいっぱいの笑顔で受け入れる恋人たち。観客は2016年のシェイクスピアを認識していく。過去に生きた人物たちと今に生きている自分は、地球という同じ船に乗っているのだと気付く。

開演前から役者たちは舞台上にいる。各自リハーサルをやっている。開演のアナウンスが流れ、彼らは一列に並び、深い礼をする。観客は拍手を返す。礼は「幕が上がる」という合図、現実から劇世界へと入っていくという合図。蜷川演出でよくある手法だが、これにひとつ意味が加わったように思ったのは『たいこどんどん』からだ。

ひとりの娘が現れ、掌に包んでいた白い小鳥を放つ。娘が去るときも、同じ仕草が繰り返される。『冬物語』の紙飛行機を、『聖地』のラジコンのヘリコプターを思い出す。放たれた小鳥はどこへ行くのだろう? そして彼女はどこへ行くのだろう? 自由への飛翔? 神への帰依? 象徴的な場面でもあった。扉が開き、娘は彼方から駆けてくる。そして彼方へと消えていく。さい芸の奥行きのあるステージはこうやって使われる。ひとはこの世界にやってきて、この世界から去っていく。

ショウ・マスト・ゴー・オンをこんな形で観たくはなかった。しかしこちらの思い込みもあろうが、カンパニーの懸命さにうたれた。もともとのプランから加えられたであろうスローモーション、それに対するツッコミ。大石継太、石井愃一が笑いで舞台をひっぱる。清家栄一のオマージュ溢れる扮装、松田慎也の鷹揚。複数の役を与えられた内田健司の、演じる対象への真摯な対峙(渾身の白目!笑)。枚挙にいとまがない。「蜷川育ち」(大石)の役者たちが、安心してくれと演出家を送り出すかのように、いきいきと舞台に立っている。お互いを力づけるかのように、藤木直人が、多部未華子が、辻萬長が人間賛歌を見せてくれる。

喜劇だったからこそ救われることもある。演出家がいる、いないけどいる。カーテンコールで掲げられた遺影。いるけどいない。F列中央、ステージに並ぶ役者たちの視線とほぼ同じ高さ。誰かが自分を見ているわけがない、それでも顔があげられなくなった。こらえてもこらえても涙が溢れる。

彩の国シェイクスピア・シリーズ、残るは五作品。

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脚本:ウィリアム・シェイクスピア
演出:蜷川幸雄
翻訳:松岡和子
演出補:井上尊晶
美術:中越司
照明:勝柴次朗
衣裳:小峰リリー
音響:友部秋一
ヘアメイク:佐藤裕子
音楽:阿部海太郎
舞台監督:濱野貴彦
制作:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ
企画:彩の国さいたま芸術劇場シェイクスピア企画委員会
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藤木直人:アンジェロ
多部未華子:イザベラ
原康義:エスカラス
大石継太:ルーチオ
廣田高志:監獄長/貴族
間宮啓行:エルボー/貴族/客/修道士

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06月04日(土)
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