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by kai
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■『逆鱗』
NODA・MAP『逆鱗』@東京芸術劇場 プレイハウス
予備知識なく観た方が先入観を持たなくてよいが、知ってることはあった方がよい、というのは『エッグ』(初演、再演)に通じるけど、野田秀樹は『エッグ』のようにはしない、と言っていたそうだ(パンフレット、池田成志の頁参照)。個人的には『オイル』や『ロープ』を思い出した。『ロープ』のモチーフとなったできごとを、自分は舞台を観て初めて知った。
今回のモチーフについては知ってはいた(個人的に人類史のなかでいちばん興味があり、関連文献を積極的に読んでいるのが第二次世界大戦なのだ)。NINGYOは86歳、16歳のときに…という台詞。瞬時に70年前のことが描かれるのだな、と思う。物語が進むにつれそのことかもしれない、あのモチーフはあれのことかもしれない、というぼんやりとした不安がついに像を結ぶ、その瞬間にはやはり震えがきた。夢の遊眠社時代に炸裂していた言葉あそびやアナグラムと言った野田さん得意の作劇が、今作はふんだんに盛り込まれている。それら言葉を用いた謎解きは、以前は自分の視界や意識をより開き明るくする、希望に満ちたものだった。しかし野田さんが書く近作にそれはない。明かされた謎はあまりにも暗く、重い。文字を記す者として、忘れ去られていくことを書き留めておかねばならない。そんな強い覚悟を感じる。
戦争を始めるのは簡単だが、終わらせるのはとても困難なことだと誰かが言っていたが、まさにそのとおりのことが描かれる。相手を察する能力、言えなかった言葉。それらをサキモリとNINGYOは読み取ることが出来る、口にすることが出来る。しかし口にした言葉は宙に浮き、幻聴と同じように扱われる。それが本当の心の声だったとしても。それが聴こえない、あるいは聴こえないふりをするしかなかったひとたちは、惑わされ、あるいは流され、それこそ雑魚…イワシのように鱗を散らしていく。モガリとイルカはお互いを理解することが出来ないが、それでも辿り着く場所は同じになってしまう。
その「真実の声」と言ってもいい声に、NINGYOを演じた松たか子の声はぴったりだ。澄みきって、強く鋭く通り、明瞭な言葉が遠く迄響く。その松さんが、終盤言葉にならない凄まじい声を出す。言葉では表現出来ない叫びには、多くの思いが内包されている。言葉を駆使する戯曲が舞台に載り、役者の身体を通すことで演劇になる。それを体験出来ることは無上の喜びでもある。そして再び言葉に戻る。モガリは殯、サキモリは防人。劇場をあとにし、物語をさまざまな層から見ることで心に刻んでいく。
深い深い海底には、太陽の光は届かない(ここに至る迄の、服部基の照明が素晴らしい)。終幕、暗転とともに視界を満たした闇の恐ろしさ。誰も知らない場所で命を終えるひとたち。絶望としかいいようのないその思いを想像する。想像しなければならない。そう思う。
阿部サダヲの声が若干嗄れ気味に聴こえるのがちょっと心配。彼も「真実の声」を察する力を持つ役だが、そのキャラクター造形とリズム感のよさは声の不安を払拭してはいる。その底抜けの明るさが陰る瞬間に惹きつけられる。瑛太の「おーい!」という声、合わせて振られる長い腕は、終幕が近づけば近づく程胸に迫る。満島真之介はやがて恐ろしさへと変貌するひたむきさを体現。あのくるりとした黒目、瞳孔がだんだん開いていくようにすら見える。池田成志の自由度の高さは見事としかいいようがなく、重く息がつまるような(実際それが今回の重要なモチーフでもある)場面のなかに空気を吹き込んでくれる。スキンヘッドの扮装には東条英機を連想していたんだけど、そこにあっちを入れてくるんかい! と衝撃でもあった(笑)。井上真央の妖艶を孕む無邪気も強烈。銀粉蝶さんの忘却の台詞は、悲しみはもはや個人のものではないと時を経て届く強さを持っている。そして野田さん。NODA・MAPは野田さんの劇作・演出が観られるというだけでなく、役者としての野田さんが観られることも大きな要素。声、身のこなし。いつ迄観られるのだろう、まだまだ観たい、と思う。
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その他。
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02月06日(土)
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