ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648082hit]
■『書く女』
二兎社『書く女』@世田谷パブリックシアター
永井愛が描く樋口一葉、10年ぶりの再演。初演は逃しています。10年前に書かれた作品であり乍ら現在が投影され、一葉の没後120年であり乍ら状況はさほど変わっていないようにも映る。しかし同じことが繰り返されているようで、ほんの少しずつでも、何かは変わる。そう感じさせる、そう信じたくなる、光のような作品。
作家になると決意した一葉が半井桃水を訪ねる開幕から、桃水と別れ、死の影がしのびよる晩年なおも書き続ける終幕迄。一葉は迷いに迷い、苦しみに苦しむ。それは創作という行為に因るものに限らない。若くして戸主となったこと、家庭の貧窮、そして何より女性であること。しかし彼女は120年前の明治時代に、女性で、もの書きで、成功を収める。発表する作品は次々と話題になり、表札が何度も盗まれるほどの人気を得る。では、それにも関わらず彼女の暮らす環境が好転しなかったのは何故だろう。彼女が女性だったからか? もの書きという、評価と対価に隔たりのある職業のためか? どちらも今とそう変わりがない。
もの書きは食いつめた者が選ぶもので、本名を名乗ることなんてとんでもない、という職業。女性というだけで珍しがられ、作品の深層へ迫る読者がいないという歯痒さ。差別的なこのふたつの偏見を、一葉は5年足らずで更新していく。社会をちくりと刺す志を持つ同志が現れ、性別を超えたところで作品を読みとく批評家が現れる。日々の状況はかなり過酷。しかしそこには軽やかさがあり、笑えるやりとりがある。「楽しい」という一葉の言葉が印象に残る。彼女の24年の人生を彩る「楽しい」ひとときは、現代を生きるひとたちとなんら変わらないものだ。
士族の誇りを捨てきれず、金がないのに見栄を張り、貧乏を嘆き娘をののしり、時流と大衆に流され戦争を賞賛する母。その母と姉との間に板挟みの妹。慈悲心溢れる信仰者ゆえ慣習を守り通す友人、詮索と噂が大好きな友人。女で母で働き手、その多様さ柔軟さと同様自身の芯が揺らぐ作家の先達。しかし一葉はどの人物も否定しない。母と友人菊子はその否定されない理由が多少弱い(特に菊子は、噂を流した原因が一葉の才能への嫉妬か桃水への恋心からなる邪見か理解しづらい)が、その不可解さこそが人間くささ=魅力として、一葉の書く行為の肥やしとなっている。自分とは違うが、という解釈で、一葉は彼らに感謝を述べる。
その感謝は最後、桃水との対話に現れる。小説の師であり、「厭う恋」の相手である桃水。一葉を弟子として迎え、小説家としてひとりだち出来るよう道を開き、男女の仲やコネがらみと世間に邪推されないようにと心をくだく。ジャーナリストとして高い評価を得、釜山の友人たちを大切にし、母国と隣国が友好的に歩んでいけないものかと悩む。仕事場に訪ねてきた一葉におしるこをふるまい、弟妹の子を養子に迎えかわいがり、人形を愛でる一面も。非の打ちどころなど見付からないような人物だ。それなのに一葉は桃水自身の言葉ではなく、悪い噂の方を信じる。ふたりが逢うときはいつも雨で、ときには雪にすらなる。おおよそ暗示的でもあり、ドラマ性すら孕む。一葉が作家たる所以を示すようなエピソードだ。桃水にはただ、ただ作家としての才能だけがなかった。しかし彼の存在は、作家・一葉の礎となった。桃水との「楽しい」ひととき。彼が作る小豆20粒ほどの透けたおしるこのおいしさ、「30分、20分、いや、15分」と彼女をひきとめる言葉。劇中くりかえし放たれる台詞だ。彼との日々を一葉が思い出す終盤のシーンには涙が出た。舞台には大きな階段。彼女の人生の苦難と、成長を示すかのような印象的な装置だった。
[5]続きを読む
01月23日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る