ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648202hit]

■『海街diary』
『海街diary』@新宿ピカデリー シアター9

鎌倉は好きな街で、少なくとも年に一度は出掛けるのが恒例。湘南新宿ラインが繋がってからは回数が増えた。盆地育ち故、海辺の近くに住むことに憧れがあるのかも知れない。そんな憧れの街の四季折々の風景、そこに棲むひとびとの営み。深く優しく沁み入る、大きな時間の話。メインロケ地は極楽寺駅周辺。

父も母も新しいつれあいを得て出ていった。古い家屋には三人の姉妹が残された。ある日父の訃報が入り、姉妹は葬儀に参列するため父の最期の地となった山形に足を運ぶ。そこには腹違いの妹(四女)がいる。妹の母は既に亡くなり、父のそのまた新しいつれあいは葬儀で泣き続ける。喪主の挨拶を、血の繋がらない娘(まだ中学生の彼女に!)に任せようとすらする。この場面には手が冷たくなった。怒りにも悲しみにも喩えようがない複雑な感情が沸く。割って入った長女が「私が代わりに。これは大人の仕事です」と言い、我に返った母が毅然とも誇示ともとれる表情で「いえ、やっぱり私がやります、妻ですから」と言い返す。

この場面を観た時点で、もうこの映画のことを好きになってしまった。親に捨てられたこども、大人になることを急がされたこども。それを守ろうとする、かつてこどもでいることを許されなかった大人。彼女たちが、長い人生のなかでしばらく時間をともにする、いつかはなくなるコミュニティの話だ。

四女とともに暮らす日々のなかで、三姉妹は少し変わる。長女はひとつの関係を終わらせ、次女はつまらないと思っていた仕事の大切さに気付く。三女は姉としての自分を発見する。「神さまが考えてくれないならこっちで考えるしかない」と言う次女の上司の言葉が思い出される。天の存在はときにいたずらのような運命を投げつける。それに抗うため、あるいは身を任せられるようにするために、姉妹は日々を過ごす。やがてそれらは父と母への許しとなり、別れとなる。

死の影が濃い。姉妹は三回喪服を着る(四女は制服)。長女は病院で日々臨終に接し、次女は遺産を巡る仕事と真摯に向き合う。三女は足の指を六本失い乍らもエベレストから帰還した店主に「また山に登りたい?」と訊く。四女は自分の存在を肯定出来ない。姉妹が暮らす家の梅の木は年々実りが細り、家屋は少しずつ傷んでいく。不在のひとびとの身体は確かにここにはないが、記憶として残る。記憶は、生活を通し共有され繋がっていく。長女が母に渡す梅酒、三女が四女と食べるちくわカレー。四女は知らない祖母の記憶を、三女は知らない父の記憶をシェアしあう。父と四女が食べたシラストーストも、いずれ三姉妹と共有することが出来るだろう。四人で作ったシーフードカレーのように。

そして次女が好きな海猫食堂のアジフライは、山猫亭の主人がレシピを受け継いでくれる。そう、コミュニティは家族のうちに留まらない。不在のひとびとの記憶は街へと出て行くのだ。誰もが持っている自分しか持ち得ない記憶を、他人が持っていない記憶と繋げる。記憶とともに登場人物は自分たちの居場所を見付ける。今はここにいていいのだ。そしていつここを出て行っても、いつ帰ってきてもいいのだ。

海猫食堂と山猫亭の主人たちと、四女と男ともだち。世代の違うふたつの愛の形を観られたこともよかった。恋愛と言ってもいい、でもやっぱりちょっと違う。彼らが同じ時間を過ごせたことを嬉しく思う。ひとにはいつか必ず別れのときがくる。最期のときが判っていても綺麗なものを綺麗だと思える。自分が死ぬときに思い出せること、この映画にはそれがつまっている。男ともだちの自転車の後ろに乗り、桜のトンネルを走り抜ける四女の額を彩ったひとひらの桜。それは居場所を見付けた彼女への祝福に思えた。


[5]続きを読む

07月08日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る