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by kai
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■『地獄のオルフェウス』
『地獄のオルフェウス』@シアターコクーン
1940年に初演されたテネシー・ウィリアムズの商業舞台デビュー作『天使たちの闘い』。歓迎どころか手酷く否定されたこの作品に彼は拘り続け、17年後『地獄のオルフェウス』として生まれ変わらせる。そうした背景から考えても今作はウィリアムズの原点であり、劇作家ウィリアムズのエッセンスが凝縮されていると言える。確かにここにはブランチもトムもローラもいる。敏感な心を持つ故に孤立する女性。故郷を、家族を捨てた青年。「悪夢が始まる装置」としての女や道化、蒸気オルガンが奏でるラグタイムは『欲望という名の電車』における花売りやタマーリ売り、ワルシャワ舞曲に相当する。「自分を売る」ことに飽き飽きし、あるいは恐怖し乍らも、自身の野性に忠実に生きることを選ぶ登場人物、その一瞬の輝き。彼らを徹底的に打ちのめし、抹殺するコミュニティ。これを見ろ、この残酷な生きものを見ろ。知ってるだろう? 知らないとは言わせない。叫びのような告発と、道理への諦めと。そしてブルース。死者を慰め、故郷を思う。
暗闇にふわりと光る蛍のような台詞の数々。その儚い光に魅了され、追い続け、ようやく掌に包む。掌を開いたとき、蛍はもう死んでる。モノローグによる失われた光景の描写、言葉から拡がるイメージのスケールの壮大さ。足のない小鳥、真珠のような素肌を持つ少女、オルフェウスの姿と声を持つ青年。グランドオープンする菓子店なんて、美と幸せの象徴じゃないか。その場所が一瞬にして惨劇の舞台へと転換する。ウィリアムズの人生が凝縮されているかのよう。そして今作にはギリシャ悲劇のマナーが引用されている。女たちの噂話はコロスの嘆き。事件は舞台の外で起こる。ビューラの昔話は伝令の役割を担っている。タイトル通りオルフェウスは「地獄」に「舞い降りる」(原題は『Orpheus Descenging』)。
興味深いのは、レイディとヴァルを叩きのめす人物たちだ。陰惨な差別感情を持ち、陰口を叩くひとたち。しかし、彼らを完全なる悪として見ることは難しい。人間にはその要素が必ず備わっている、たったひとりで立つ人物に対して、ひとりで立つことが困難な人物たちが群れるときに発揮される、と言う諦めにも似た寂しさを感じるのだ。ひとりで立つ人間には野性が備わる。それは「群れ」に生きる限り許されないことだ、と言う社会。噂話をする女たちも、マイノリティを暴力で排除しようとする男たちも、ひとりのときには何を思っているのだろう? 暴力は苦手だ、と言った保安官が象徴的だ。
野性を発揮した瞬間、レイディとヴァルはお互いを失う。「ヴィジョン」を授かったヴィーは光を失う。キャロルは既に失っている。しかし彼女は新しく手にしたものがある。「あたしの勝利よ!」と叫んだレイディの言葉は、その悲劇とともにキャロルが伝承していく。「生きろ、生きろ、生きろ、生きろ、生きろ!」と言うメッセージとともに。ブルースはマーダー・バラッドの子孫だ。
謎めいた美しい青年に惹かれる不幸な人妻、と言う外枠はあれど、レイディとヴァルは人生を取り戻すために闘うバディのようにも見えた。大竹しのぶも三浦春馬もすごかったな……。警戒心、恐怖心、猜疑心。それでも近付きたい。ヤマアラシのジレンマだ。対話のなかから少しずつ相手のことを知り、距離が縮まっていく。触れたいと言う思いが爆発したとき、ふたりは身体だけでなく心も触れ合うことが出来たのだと思えた。そんなふたりの演技だった。
三浦さんは掃き溜めに鶴か! と思えるような美しさ。そして憂いに満ちた弾き語り。オルフェウスだ、オルフェウスがいるよ! 何より驚いたのは、翻訳劇の台詞を見事に乗りこなしていることだった。観劇後、今回の新訳で発行された戯曲を読んだ。ウィリアムズの書く台詞は美文だが、一定のリズムを以って読み進めるのが難しい。しかし舞台上で奏でられていたそれは、言葉の意味と内容が違和感なく伝わり、心地よく響いた。翻訳調に振り回されることなく、その人物の血肉として響いてくる。初のストレートプレイでこれとは。演者の技量を思い知る。リズムが感じられる広田敦郎の訳もよかった。
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05月09日(土)
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