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by kai
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■『ハムレット』
ニナガワ×シェイクスピア レジェンド 第二弾『ハムレット』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
言葉、言葉、言葉。戯曲の世界を舞台上に載せるのには演出家の解釈が要る。舞台上から言葉を伝えるには演者の存在が要る。さまざまな解釈を得、さまざまな役者を通し、現在と照らし合わされ、何度でも上演される作品。それに取り憑かれ、劇場へと足を運ぶ観客。そこにはそれぞれの歴史がある。生まれた土壌とは無縁の国へ伝えられた作品の歴史、その言葉を自国の言葉に置き換える翻訳家個人の歴史、それを舞台化する演出家個人の歴史、演じる役者の歴史、そしてそれを観る観客の個人史。だからこそ、作品から受ける印象は個人によって変わり、それら幾通りの思いをも受け止める作品には強度がある。
言葉、言葉、言葉。熱演のあまり時折声が濁る藤原竜也は、しかしそれらを感情の発露、登場人物の人生の速度として伝えようとする。平幹二朗は“禊”で老いた身体を晒し、この懺悔は天に届かないと自嘲する。たかお鷹、大門伍朗、山谷初男の白眉とも言える台詞まわし。横田栄司の、目撃者であり証人たる思慮深い毅然。「男は皆やりたいだけ」と、貞淑な少女が本性を表したかのような台詞をさらりと唄う満島ひかり。彼女は、ゴンザーゴ殺しの芝居が王の怒りで中断したあとのだんまりで、ハムレットをちらりと見ただけで退場していく。一方ハムレットはオフィーリアを見向きもせず、そのまま玉座を打ち倒しに向かう。ホレイシオはハムレットを追う。オフィーリアの思いは誰にあったのだろう?
言葉としての台詞、その台詞が内包する背景。それらが日本語に翻訳され、日本仕様の美術を施された舞台で発せられる。長屋、劇中劇の定式幕と附け打ち、雛壇、そして流れる声明。美術や音楽は海外公演を意識してのことだと思うが、冒頭の字幕で説明されていたとおり『ハムレット』が日本に伝わってきてからの歴史を観客に認識させる装置としての意味もある。次々と引き戸を開け放つハムレットの動作に独特のリズムが生まれる。声明はレクイエムとして響く。クローディアスが身を預ける井戸、ガートルードの寝室の蚊帳のフォルム。その国に暮らしてきたひとたちの生活が示される。雛壇は渡辺謙主演版(当時NHKで放映されたこれが、思えば自分にとって蜷川演出初体験だ。『Wの悲劇』は別として・笑)等過去の演出でも起用されていたし、長屋は朝倉摂の遺作だ。この辺りは、演出家個人の思い入れもあるかも知れない。しかしその個人史が現在にぶつかったとき、物語の新たな側面が見えてくる。既にここにはいない朝倉摂、彼女の作品を現在の舞台として観ることができる。回顧ではなく再提示、集大成としての演出は、秋の『NINAGAWAマクベス』にも繋がっていくだろう。
蜷川演出には、さまざまなフォーティンブラスの解釈がある。征服者としての、何事にも全力を尽くす、父を失った王子。ノルウェー軍は愚連隊のイメージとして伝聞されるが、ハムレットがフォーティンブラスのことを「うら若き儚げな王子」と言い表す台詞もある。今回の解釈はこの言葉にあると感じた。パンフレットに載っていた稽古中の写真では、フォーティンブラスは武人の扮装で馬に乗っている。ここからさまざまな試行錯誤があり、今回の姿になったのだろう。彼が何故あの姿で戦場に現れたのか、ハムレットの死の場面に立ち会ったのか。死にゆく(死んだ)ハムレットの視点だと考えればいいように思う。理想の次世代の王、自分がなし得なかったことを実行出来る、憧憬の対象としての幻影を抱える「うら若き儚げな王子」。ハムレットの目にフォーティンブラスはこう映ったのだ、と考える。「何度やっても、やりきった感じがしない」。演出家がこう言う『ハムレット』の多面性は、やはりただひとつの解釈では伝えきれない。だから何度も演出する。蜷川演出の『ハムレット』は、今回でVer.8だ。
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01月31日(土)
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