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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『火のようにさみしい姉がいて』
シス・カンパニー『火のようにさみしい姉がいて』@シアターコクーン
清水邦夫が木冬社のために書いた作品を、蜷川幸雄が演出する。かねてより蜷川さんは「清水の戯曲でも木冬社作品にはいつも苛立ちがある。でも自分が演出することはないと思う」と言っていたが、今回「プロデューサーにけしかけられた(笑)」とのこと。観客としては北村さんに感謝するばかり。
近年の蜷川さんは、若手とのコラボレーションを積極的に行う反面、もう亡くなったり新作が書けなくなっている同世代の劇作家たちの作品を上演することに意識的だ。公演の企画が立ったのはその前なのだろうが、今年に入って今作の初演で妻、再演で中ノ郷の女を演じた松本典子(清水さんの伴侶でもある)と、再演で男を演じた蟹江敬三が立て続けに亡くなっている。蜷川さんの心中は察するに余りあるが、生き残りがこれらの作品を未来へ伝えていくのだと言う使命感のようなものもあるのかも知れない。新しい演出や役者を得て再演が繰り返される作品は幸福だ。「巨匠」「御大」「昭和」と言った揶揄などに構っている時間はない。
『オセロー』をモチーフに、茫洋とした望郷と幻想、舞台上の役では飽き足らず自身をも演じる俳優。ふいにそこから顔をのぞかせる真実と悲劇。日常に潜む詩情、敗残の苦渋と言った特徴はあるものの、清水作品のなかでは結構異色なものだと思われる。不条理、土俗ホラーの様相すらある。イアーゴは誰だ? と言うミステリとしても読める。蜷川さんの視覚化はかなりのガイドになっている。助けられた感じすらある(それは毎度のことではあるが)。
シアターコクーンの奥行きある舞台を贅沢に使っている。本筋が演じられる演技エリアはとても狭い。ちょっとした拍子で役者は舞台から転げ落ちてしまうのではないだろうか(実際小道具のいくつかが零れ落ちてきた)と思うくらい、客席との境目ギリギリ迄の数メートルと言ったところだ。その上その演技エリアには緻密な具象装置がひしめいている。この「奥行きを封じる」手法は『欲望という名の電車』からの印象が強い(『真情あふるる軽薄さ 2001』のときは、あの設定にも関わらず奥行きが“あった”のだ)。逃げ場のない閉塞した人間関係が、より切迫したものに映る。しかし今回の舞台は、現実に生きる登場人物たちが存在することを許されない場所がレイヤーとして存在する。
マジックミラーで仕切られた舞台の奥に拡がるのは暗闇。楽屋と合わせ鏡になるような理髪店の暗闇で、中ノ郷の女が仕事に励む。しんしんと降る雪の夜、毒消し売りの女性たちが通り過ぎ、新発田サーカスが現れ消えていく。暗闇にいるものたちには死の影が濃い。同じように理髪店と合わせ鏡になった楽屋では、裏方を務めていた劇団の青年がオセローとなり、若い肉体と精気を漲らせる。そのとき理髪店では、かつてオセローを演じた男が瀕死の状態となっている。暗闇の場所が逆転しつつあることが示される。幕が開き、鏡の向こう側に気付いたときのインパクト、その暗闇の魅惑的なこと。美術の中越司、照明の服部基の面目躍如。作家、演出家、出演者は勿論だが、こういうスタッフワークが観たくてニナカンを観にきているのだ(今回の制作はシスだが、座組はニナカンと言ってもいいものだと思う)。前田文子の衣装も素晴らしい。宮沢りえのまとうコート、ワンピースの色彩とシルエットの美しさ!
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09月13日(土)
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