ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648584hit]

■『祈りと怪物〜ウィルヴィルの三姉妹〜』蜷川バージョン
『祈りと怪物〜ウィルヴィルの三姉妹〜』蜷川バージョン@シアターコクーン

さて蜷川版です、ケラ版の感想はこちら。

テキストの分量は違いました。トビーアスの長台詞や、ヤンと対話する異形の存在が具象で登場する場面はケラ版にはなかったものです。同じ上演台本で(戯曲は出版のため早めに提出した、上演用の最終稿ではないものと思われる)、ケラさんが「上演時間の都合でやむなくカットした」箇所を蜷川さんはカットしなかったのでしょう。にも関わらず、実質的な上演時間はほぼ同じ(ケラ版は休憩各10分、蜷川版は各15分)で、体感時間は蜷川版の方が短かった。簡素化し機動力を活かした装置、時間の経過や場所の移動を字幕で提示することにより情報処理のスピードを上げ、観客にフィジカルな鑑賞を促したからだと思います。

フィジカルな鑑賞、と言うのは、字幕を読んだりコロスのラップによる群唱に耳を傾ける行為。実際はラップが聴き取れなかったり(これはラップを使わなかったケラ版でもそうだった。群唱の難しさですね)ト書きの字幕を読み切る前に次の場面が始まってしまったりすることもあり、私の後ろで立ち見していたおじいちゃんとおばあちゃんの三人組は「(字幕の)字が小さい、見えない」と漏らしていたのですが、休憩時間の会話(聞こえちゃった)からするとストーリー展開についていけてないと言うこともなく、「おもしろかったね〜!」と帰っていった。元気…4時間超ですよ?隣の立ち見の若者は靴脱いでぐったりしていたと言うのに。そう言えば立ち見客に結構年配のひと多かったなあ。そしてコクーンの立ち見エリアって、休憩時間ピクニックっぽくなりますよね。フロアに直接座ってチラシ読んだりしてて(笑)。

閑話休題。これらは観客の注意と興味を引き、ぼんやりしている暇を与えない=退屈させないことが狙いのフックで、極端な話、字幕は開演前に提示されていた序文だけを心に留めておけば充分だったと思います。ラップによる群唱は成功していたとは言い難く(ラップのためのテキストではない=韻を踏んでいないのでリズムに乗せるとセンテンスがガタガタになる)、ケラ版のコロスとは違うことしたるでと言う後攻の強迫観念と言うか意地にも感じられました。サービス精神の表れだと思えばご愛嬌。有頂天がカヴァーした「心の旅」を劇伴に起用、曲が流れる間字幕にタイトルと「歌唱:KERA(ケラさんがいたバンド=有頂天、だと知らないひとのためへの親切心!)」と提示したところは、ケラさんを意識した蜷川さん流のナンセンス演出と解釈しました。

スピードと言えば、パブロとレティーシャの恋はロミオとジュリエットを彷彿する破滅的なスピード感がありました。ふたりでウィルヴィルを出ようと客席エリアで激しく抱き合うところは、蜷川さんらしいドラマティックなシーンになっていた。個人的にはどちらのヴァージョンもパブロに感情移入することが多かったのだけど、公園くんと満島くんどちらのパブロにも違う魅力を感じて惹き付けられた。公園くんのパブロには何ごとにも没頭出来ない迷いからどこにも居場所を持てない寂しさを感じたが、満島くんのパブロには何にでも激しく没頭してしまうが故の、どこかに所属し誰かと繋がっていたいと言う愚かさが悲しかった。


[5]続きを読む

01月26日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る